さよなら、無色透明なこの世界

 緑の筈の木々が畝って強い筈の風が吹きつける。葉は吹き乱れて風は冷たい、筈だ。傍で椿か山茶花が揺れているようだ。覗きこめば大量の水を湛えた穴が口を開けていて、見上げれば雲がある筈だ。何を思うでもなく一歩踏み出すと、足に当たったらしい石が水に向かって転がっていった。
音はしない。俺の耳には何も届かない。色もわからない。鼻も、何も嗅ぎとらない。全てがモノクロ。無声映画のようだった。ただカクカクと、モノの動きだけを双眸が捉える。何の味気も感慨もない、つまらない世界だった。


 リビングのソファーに身を沈めて、糞嫁が見たいと言っていた映画を観ていた。エンドロールを見送りながら隣で糞女がグズグズ鼻を鳴らして、肩に頭を乗せてくる。シャンプーの香りが鼻を擽って、肩だけ妙に熱い。
「泣く程の映画だったかよ」
「だって…恋人が心配で成仏できなくて、お互い姿は見えるのに触れないなんて切ないんだもの」
尚もズルズルと鼻をすする糞女にティッシュを箱ごと取ってやる。映画に飽きて読み出した月刊アメフトを眺めながらコーヒーを啜った。緩慢な動作でティッシュを受け取った女は、盛大に鼻をかんでまた俺の肩に頭を預けた。さっきよりも体が近い。糞嫁特有の甘臭ぇ匂いを嗅ぎ取って、栗茶の髪に顔を埋める。触れねぇモノなんかいないのと一緒だ。匂いも感触も何もない。今のこの行動ができなくなるなんて事は、考えたくはなかった。
「もし、ね。私が先に死んでもちゃんと最期まで生きてね」
「なんだ急に。死ぬ予定でもあんのか」
「そんな予定はないけど、いつ死ぬかなんてわからないじゃない。あ、でも心配で成仏できなくて化けて出ちゃうかも」
クスクスと糞女は隣でマグカップを両手で包んで楽しげに笑った。泣いたり笑ったり忙しいやつだ。そんな表情は驚く程飽きない。
「ンな手間はかけさせねぇよ。死ぬ時も付き合ってやる」
「もう!ちゃんと生きてって言ったでしょ!」
笑いながら言ってやれば糞女は頬を膨らませて抗議をしたつもりなのだろうが、碧眼からはそんな色はわからなかった。ただただ、楽しげにそのあおを潤ませていた。


 夕方の駅前は人通りが多い。普段より強いだろう喧騒が今日が週末であることを物語っている。アメフトの練習をそこそこに切り上げて、駅前の時計塔で糞嫁を待っていた。12月が近いせいか風が切るように冷たい。日が落ちてくれば尚更だ。手編みのマフラーに顔を埋めて前を見やれば、道の向こう側にいた馴染みの碧眼と眼が合った。俺に気がついた女は寒さなど感じないような鮮やかな笑顔で、手を振って小走りで交差点に近付いた。その時だった。
 俺の後ろでタイヤが地面に擦れる鋭い音がけたたましく響いた。ふらついた自転車を避けようとして車が急ハンドルを切ったようだった。制御不能になった車が歩道に突っ込んでいく。その時、時間が止まったのかと思うくらいに景色がスローモーションになった。だが体が思うように動かなかった。何かを叫んだ気もするし、手を伸ばした気もする。それのどれもが手遅れで、激しい衝撃音と共に世界が戻った時には確かにさっきまで居た筈の女が消えていた。
悲鳴が、怒号が飛び交う。それに混ざって、車の下敷きに、女の人が、そんな単語が耳に入る。
嘘だ。そんな馬鹿な。
呼吸の仕方を忘れて、思考が定まらない。まるで現実味がなかった。足は辛うじて動いているようで、鉛が入ったような動きで車が突っ込んだ場所に歩み寄る。

そこには。

栗色の髪の毛だったものと、片方になった碧眼だったものが、いろを消してそこにあった。ただあるだけだった。そこから先は、ブツリと焼き切れた様に記憶がなかった。



 煙草に火をつけて、空っ風が吹くベランダで紫煙を燻らせる。風は冷たい。空は灰色の雲が覆っていて、僅かばかりの隙間からあおが覗いていた。ちょうど一年前に逝ってしまった同級生もあんな色を持っていた。そう思い返せば途端に居たたまれなくなって肺に煙を吸い込む。チリチリと喉が痛んだが、こんな痛みはあの男のそれと比べれば微々たるものなのだろう。最後にあの男と言葉を交わしたのもちょうど一年前だ。夜の、姉崎が事故に巻き込まれて死んだ事を告げたあの電話が最後。それから、葬式の時も四十九日の時も様子を見に行った時も会話は一切していなかった。
 もう、今までの悪魔と呼ばれていた男はいなかった。弁がたつあの口は引き結ばれて、顔色は悪く、鍛えている筈の体は小さく見える。燃える情熱を灯し続けた眸からは色が消えていた。その姿を葬式で見たときの衝撃は、今も記憶に残っている。
その双眸は真っ黒で、鬱蒼とした森に穿たれた洞を覗いたような空虚。見ていると違う世界に引き込まれてしまいそうだった。なんとか出した俺の声にこちらを向いた様だったが、向いた、というよりは風に吹かれてただ揺れた様な生気の感じない動きだった。
その変わり果てた姿に、戦慄した。
 あの二人が結婚すると聞いた時は、あぁやっとアイツの孤独を理解してくれる女が見つかったんだなと栗田と静かに喜んだものだった。アメフトや仲間だけじゃ埋めきれなかったそれを、やっと埋められるのだと。なのに。何の前触れもなくそれが引き抜かれてしまった。均衡が破られてしまった。塞いでいたものが余りに大きくて、今まで耐えられていた孤独に耐えられなくなった。仕事もアメフトも手につかず、引きこもるようになったかつてのキャプテンを、デビルバッツの連中や姉崎の両親が足繁く様子を見に通っていたようだった。俺と栗田は、とてもじゃないが直視できずに数える程しか行っていない。 こうまで、人間とは脆いものだったのか。超現実主義のアイツが、現実から眼を逸らし続ける無様さに、心臓が捻りあげられる様だった。
そんな時、ポケットにいれていたケータイが着信を告げる。相手を見ればセナだった。墓参りに行く話をしていたからきっとその件だろうと、構えることなく電話に出る。
「どうした?」
『ム、ムサシさん…!』
荒い息の間に切羽詰まった声がした。只事ではないのは明白だった。
「何があった?」
『まもり姉ちゃんの、お母さんから、連絡があって…遺品が突然送られてきたって言うんです…!それで心配になって、鈴音とヒル魔さんの家に行ったら…』
電話が終わる前に体は動き出していた。乱暴に吸殻を灰皿に押し付けてコートと鍵を引っ付かんで車に飛び乗ると、ケータイを切ってアクセルを踏み込んだ。

『家の中が、蛻の殻になってて、ヒル魔さんがいないんです…!』

 鈴音が行き先に心当たりがあるらしく、二人を拾うべくヒル魔の家に向かった。嫌な予感しかしない。背中を凍える様な冷たい汗が伝う。それをして、何になるというのだ。天使と呼ばれたあの女は、決してそんな事、望みはしない筈なのに。
心臓が煩く脈打つ中向かった先で、忘れかけていた悪魔の聲と笑顔を見た。それは、実に一年ぶりだった。



天気がいい日にね、水がキレイにあおくなる湖があるの。

 そんな事をかつてあの女が眼を輝かせて言っていて、そのあおに興味があって連れてきた事があった。そこで、俗に言うプロポーズと言うやつをした。指輪をはめてやれば碧眼に水をためていて、それは眼下に溜まるあおよりもずっとキレイだなと思った。山茶花と女の甘い馨りが混ざる。女の嬉しそうな聲が耳を震わせる。この時目の前に広がったそれが、俺の全てだった。

それなのに。

一瞬で、きえてしまった。

栗色も、あおも、匂いも温もりも何もかも。音も聲も何も聞こえない。
死んでもテメェは一度も目の前に現れない。未練がなかったのか、成仏してしまったのか。
所詮映画の話だし、仮に現れたところで何になる。触れもしない。匂いもわからない。薄っぺらい映像だけで満たされる筈がない。かつて何も感じなかった筈の孤独に身が引き裂かれそうだった。躰の一部を持っていかれるなんてモンじゃない苦痛。絶望。恐怖。生きるのがどういうことか、わからなくなった。
 あの日を境に何も感じなくなっていた。それでも時間は過ぎていて、知らない間に季節は一回りしていたらしい。ただ息をして、ただこの日が来るのを待っていた。もしかしたら、テメェと行き着く先は違うかもしれない。だが、それでも構わなかった。
テメェのいろに飛び込めるなら、肉体のない世界に行けるのなら、それで。
一歩、崖の際に踏み出した。静かに時が来るのを待つ。この無色透明で無味無臭な世界に、いろが戻るのを。強い風が、急に吹き付けた。髪が靡いて、ふわりと甘い馨りがした気がして空を仰いだ。
あおだ。
待ち望んだあおが、眼下の水溜まりを照らす。さっきまでただの灰色の水溜まりだったそれが、鮮やかにいろを持った。
来た。やっとだ。
口角が上がる。この高揚感は随分と久しい。両手を広げて風を享受する。側に咲いていた花は山茶花で、畝った緑がガサガサと音をたてた。それに混ざって微かに車のエンジン音と、乱暴に閉められたドアの音がした。荒い足音が数人分、何かを叫びながらやって来る。馴染みのある声だ。ただ、俺が聴きたいのはこの聲じゃない。
ムサシが、俺の名前を叫んだ。
その声に答える様に。踊る様に。

「じゃあな」

後ろを振り向いて声をかけて、そのまま、一歩、飛ぶように踏み出した。
上も下もあおに挟まれて、ゆっくり落ちていく。遠くから悲鳴が聞こえた。だが、何も気にならなかった。テメェが生まれて、テメェが死んだ日。あの日から、テメェと見たこの景色のなかでこの日に傍に逝くと決めていた。テメェは生きろと言ったが、俺はハナから人生の終着もテメェに付き合うつもりだった。
俺は、俺のやりてぇようにやる。誰の指図も受けない。
あと少しだ。さあ、何よりも俺を彩ったそのあおで、俺を受け止めろ。
眼前にあおが広がったその時、山茶花と甘い匂いが鼻腔をみたして、それで。


嗚呼、やっと、聲が聞こえた。