タダより高いモノはない

ガタタン…ガタタン…

一定の速さで刻まれる電車の走行音。異常に上がった湿度のせいでむせ返る程の熱気に包まれた車内。
そう、ここは満員電車。
 少し早めに終わった部活の事務仕事のお陰で巻き込まれた帰宅ラッシュ。前後は乗客の背中。身動き一つとれない程ぎゅうぎゅう挟まれながら、さながらサンドイッチの具だなーなどと思いながら まもりは顔を気持ち上へ向けた。そうでもしないと息さえ出来ない。決して小柄ではない、むしろ平均より少し高めであるまもりでさえ、男に挟まれれば呼吸もしにくくなる。空気を欲して顔を上げながら 隣りに立つ周囲より頭一個飛び出た悪魔を睨む。

「…いいよね、ヒル魔君は満員電車でもさほど苦しくなくて済んで」
「あ?よかねぇよ、暑苦しくてしょうがねぇ」

どさくさに紛れて背中で寝やがるヤロウもいるぜ?

いつになく饒舌な蛭魔はそういいながら、両手で掴んでいた吊り革…の輪じゃない革の部分をもう一度握り直す。

「へぇー」

いつもなら私の場所なのに。

 出かかった言葉を慌てて飲み込む。少なくとも満員電車で言うセリフではないな。思いながらまもりははにかんだ笑みを浮かべる。その笑みを見て、蛭魔は少し安心した。電車が揺れる度に小さくくぐもった声を上げる隣りの女の様子を気遣う様に見ていた。当然、顔や態度にはまるで出さないわけなのだが。気遣いが先に来たせいかまもりの一言に饒舌に返したのを思い出して、柄にもねぇと苦笑を噛み殺した。蛭魔はおもむろにはにかみ笑いを浮かべたまもりに照れ隠しの様にからかう。
何にやけてやがんだ気持ち悪ぃ。
そう言いかけて、言葉を飲んだ。一度微かにびくんっと体が震えたと思うと、今まで柔らかい笑みを浮かべていたまもりの顔から一瞬にして笑みが消えた。
後に残ったのは、嫌悪感を全面に押し出した表情だけ。碧い双眸がゆっくりとこちらに向き直る。
潤んでいる。
蛭魔は瞬時に悟った。痴漢だ。蛭魔の眉間に深い皺が寄る。
 前にもこんなことがあったがその時は今程混んでいなかった。結果隣りの蛭魔に助けを求めてあっさり犯人が地獄に落ちた、基捕まったのだが、今回の様にこうも混んでいて、しかもお互い全く動けない状態とあれば為す術がない。蛭魔は僅かに見えた奇怪な動きをするまもりのスカートを見やった。腕の伸びる角度、スカートの皺の付き方、動き方を見て犯人の場所を分析する。犯人は、蛭魔がいる位置と反対側のまもりの隣り辺り。場所を把握してそこから犯人を特定する。
微かに見える細かい動き。
微かに見える表情。
一瞬の変化も見逃さない。

…!あの糞野郎…!

 確信した。アイツは見覚えがある。よく駅のホームをうろうろしているうさん臭い野郎だ。どうやら常習犯の様で、今までも何度か車内でまもりに手を伸ばそうとしてその度に睨んでいた様な気がする。他の乗客に手を伸ばしているのも見た。その時は距離が遠くて咎める事さえままならなかったが。今まで目を光らせていたせいか、一度も触らせた事はない。犯人は男ながらにかなり小柄だ。位置的に蛭魔が見えないのか、それとも集中しすぎて周りが見えないのか周囲を気にせずまもりを襲う。全く動けないのをいい事に、どんどんエスカレートしていく。
碧い眼に溜まる涙。助けを求める様に動く口。嫌悪感以外何も表さない表情。
蛭魔の眼が据わる。
ただそれ以外には全く表情を変えず、吊り革を掴んでいた両手でまもりにサインを送る。

『次の駅でごっそり人が降りる。周囲から人が減った瞬間に…』

アナウンスが次の停車駅を告げる。次は急行停車駅兼乗換え駅。

『俺に飛び付け』

わかった、と潤んだ瞳で合図を送る。電車が減速する。蛭魔がゆっくり両手を吊り革から放す。
後少し。
後少し。

…電車が停まった。ドアが開く。一斉に乗客が降りる。
まもりの周りから人が掃けた瞬間。まもりが悪魔に縋りつき、痴漢の手がスカートから抜けだし、痴漢の頭部に鈍い輝きの金属が当てられたのはほぼ同時だった。
乗客の足がドア付近で一斉に止まる。
周囲の目が3人に集まる。そのままの格好で固まる痴漢。目をつぶりしがみつく女。空いた左手で女を支えながら銃を構える悪魔。
照準は痴漢の脳天。どよめく車内。響く撃鉄の音。
時間が、止まった。
口元に壮大な笑みを浮かべながら地獄の底から響く様な声で悪魔が言う。

「…俺のモンに手ぇ出しといてタダで良い思いしようなんざいいご身分だな?あ?タダより高ぇモンはねぇって言葉知ってるか?」

口元は笑ったまま。だが、眼は全く笑っていない。むしろ射殺さんばかりの、鋭い、眼。完全に怯えた犯人が言う。いや、言おうと、した。

「な」

んのこと言ってんのかさっぱりわからない。

決死の覚悟で言おうとしたその言葉も、その返答を当然の様に予測していた悪魔によって握り潰される。

「あー俺が今左手に持ってるモンはナンデショウ?」

そう言って左手を僅かに動かす。乗客とまもりと痴漢の目が一斉にそこに向けられた。悪魔の左手の中には
デジタルカメラ。しかも動画撮影可能なタイプ。

「今時便利になったな、こんなに小型で動画が撮れんだぜ?解像度も申し分ねぇしなぁ。な?」

得意げに言う。痴漢の顔が青ざめた。踵を返そうと僅かに動く。だがそんな微かな抵抗さえ許されない。前には更に押しつけられる銃筒。後ろには白い眼で睨む乗客。悪魔が、尚もしがみつく女に問う。

「おい、この糞野郎は何者だったっけな?」

促されて、振り絞って、言う。

「ち…痴漢です…!」

止まっていた時間が動き出した。乗客が一斉に痴漢を取り押さえる。ドアの人だかりのせいで身動きが取れなかった駅員がなだれ込んで来た。それを確認して悪魔は手早く銃をしまう。

「終わったぞ」

そう言う蛭魔の眉間には更に深い皺。その眼には隠し切れない不快感。

「………うん、ありがと」

しがみついたまま、言う。完全に、涙声。

…本当にタダで済むと思うなよ?
糞!


 それから一週間。あの騒動の記憶もそろそろ風化し始めるであろう頃。まもりは普段の部室の一つの変化に気がついた。カウンターの上にまもりが好きなブランドの袋。しかもかなり大きい。

え、何かしら、蛭魔君のイタズラ?覗いたらケルベロスがいたとかないわよね。それとも普通に資料の山かしら。

頭の中を疑念がグルグル駆け回る。でも怖い物みたさで恐る恐る袋を覗く。その瞬間、碧い眼を、大きく見開いた。
欲しかったミュール。憧れてたパンプス。遠巻きに見ていたワンピース。いつかは着てみたいと思っていたロングコート。秋風に溶け込みそうなフレアスカート。香りに一目惚れして狙っていた香水。

なんでここまで欲しい物が揃ってるの?

そんな疑念はちょうど今入って来た見慣れた金髪によって晴らされる事になる。

「ヒル魔君…!これヒル魔君のでしょ!」
「あ?あぁ邪魔で邪魔でしょうがねぇからテメェにやる」
「邪魔っていうことないでしょ!でもどこでこんな………………………あーーーーーーーーーーーーーー!」

「五月蠅ぇ!叫ぶな!」

この男を敵に回すと悪魔どころじゃないかもしれない。それを実感せざるを得なかった秋の午後。