予想外。

 女は子供を産むと女ではなく母になる、とはよく聞く話で、そりゃああの糞女でも糞ガキ産みゃあ母親になるだろ、仮に俺だって父親になるんだぞとはよく思ったモンだが、実際糞ガキが産まれてみればその言葉の意味が痛い程よくわかった。百聞は一見にしかずたぁよく言ったもんだ。


 糞ガキが産まれてまず変わったのは生活リズムだ。当然それはその筈で、夜は2、3時間置きに体調の変化を泣いて訴えるし、日中は片時も傍を離れられないしで常に動向を気にしていなければならない程デリケートなのだ。意外にも人間とはそんな生き物だった。
 我が家で一番生活サイクルが変わったのは当然常に家にいるあの女で、糞ガキが産まれる前は俺が帰って来るのを日付が変わっても待っていたもんだったが、今となってはそんなものにも構ってられぬと大概待たずに床に就くようになった。まぁ夜泣きとかち合って二人してあやす事もままあったが。そんな日常を、意外にも俺は嫌だとは感じずに過ごす事になる訳だが、どうも最近無意識にイライラする事が多くなってきた。いや何でと聞かれたところで何故か口にはし堅い何かで、聞かれた所で知らんとしか言い様のねぇ代物だった。
どうにもイライラする。
 平日も休日も糞ガキに合わせた生活サイクルで、糞ガキのメシ(つまりは母乳だ)が終わるまでは俺のメシはお預けだし、買い物なんかは専ら俺だけ繰り出して糞女は糞ガキと一緒に留守番だし、風呂だって糞ガキを入れてからお互いバラバラに入る様になったし…

……
………
いやまさか。そんな馬鹿な事あるか?

 非常に信じ堅い、寧ろ信じたくなんざねぇがここまで思い当たる節を列挙してみて理由が見えてこない訳がなかった。単純に言っちまえば、嫉妬だ、嫉妬。自分のガキに嫉妬か?馬鹿か俺は。ファッキン!今まで欲が向くまま気の向くままあの女を(予想外はあるとはいえ)まぁ手懐けていた訳だが、糞ガキが産まれてからはそうもいかねえ。それに糞女本人もすっかり母親になっていて、夫はしっかり二の次だ。その証拠に情事の真っ最中でさえ糞ガキが夜泣きをおっぱじめれば女から母親に戻る。スイッチ式かテメェは。一度真っ最中に夜泣きが始まった時に、軽く溜め息をついたかと思えば散らかった寝間着を掻き集めて羽織り、そのまま糞ガキの世話して 即寝ちまった事があった。俺は放置か、オイ。結局そのまま萎えちまって無様にも諦めて寝るという大間抜けな事があってから、すっかりメシだけじゃなくそっちもお預けを食らっていた。…単に欲求不満なだけなのか?いやまさか。
 糞ガキの世話は嫌いじゃねえ。糞ガキの寝顔見て頬が綻びやがったのもまた事実。寧ろ好きの部類に入るのかも知れない。が、誰が言ってやるか、糞。そんな俺の行動は糞女に非常に意外がられたが、一番意外がってるのは他でもねぇ俺だ。実際柄にもなく心配やら不安やらの感情に絆されてよくわからん行動をとっているのだ。ファッキン!今だって離乳食の始まった糞ガキのメシの面倒を見ている訳だが。あーあーぼたぼた零しやがってきったねぇなぁ。手近にあったタオルで顔を拭いてやりながら、コイツがいねぇ頃は今頃糞女とどっかメシでも食いに言ってたんだがなと、不覚にも思っちまって舌打ちを噛み殺した。一回糞ガキの前で舌打ちしたら途端に泣き出して以来必死で噛み殺す事にしている。糞。

あぁ畜生イライラすんぜ本当に!

 苛立ちながらも糞ガキには当たらねぇという無駄に紳士な行動を取っているせいで下らねぇ葛藤に苦しむ俺は、糞女が買い物から帰って来るのを必死に願った。いや、呪った。糞っ!実家の両親と呑気に買い物かよとっとと帰って来いよ糞女房!そう心の中で毒づきながら糞ガキのちっせぇ口にちっせぇスプーンを持っていってやる。柄にもなく、慎重に。
んな俺の半ば八つ当たりに近い願いが叶ったのかなんなのか、ちょうどタイミングよく糞女房がご帰還なさった。遅ぇ!
「ただいまー」
「オイ!テメェ遅ぇんだ…よ…?」
なんで玄関にテメェの両親がいるんだよ。台詞が尻すぼみになったまま糞女を一瞥すれば、全て理解したかの様に笑顔で続けた。
「あぁあのね、彩菜に会いたいんだって」
ソウデスカ。ちょうど良かったな今メシ食い終わったぞ。馬鹿に大量の荷物をそばのソファーに置きながら糞女が説明する。まぁたまには孫の顔も見たくなるモンなんだろ。一応糞女の両親に軽く会釈して(この俺が会釈だ会釈!)彩菜をチャイルドチェアーから下ろして抱き抱えた。…にしても何か妙だ。
「おい、なんで上がって来ねえんだよ」
 そうだ、何故か家に上がってくる気配がない。そう疑問を投げながら女を見れば、でけぇ旅行鞄にオムツやら哺乳瓶やらタオルやらを放り込んでいた。おいなんだ家出か?彩菜と一緒に実家に帰りますってか?なんだなんだ原因は!突然の糞女の行動に珍しく思考が停止して彩菜を抱えたまま固まる俺に気がついて、そりゃあもう珍獣でも見た様な顔で笑った。糞、何か腹が立つ。
「やーだ!何その顔!お父さんとお母さんがね、たまには夫婦でゆっくりしなさいって彩菜預かってくれるって言うから、その準備してたの。まぁ何だかんだ言って一緒にいたいのよね」
 ふふふ、と嬉しそうに笑いながら尚も糞女房は作業を続けていて、不覚にもその台詞に何か根本的な感情の部分をくすぐられた様な気がした。赤ん坊相手に勝った気でいるこの惨めさたるや。どうやらタクシーをマンションの前に停めていたらしく送らなくていいと断られて、糞女房の両親に必要な荷物と彩菜を預けた。去り際に残した義父の「ごゆっくり」の一言に妙に実感が籠ってんなと思ったのは恐らく俺だけだ。笑顔で手を振る糞女房の隣りで会釈(未だに慣れない)して、ドアが閉まるのを待つ。こんな時ばっかりは長い。ドアが閉まる数秒が。
ドアが閉まったのを確認して糞女房が口を開いた。
「すっごく久し振りね、二人だけになるの…!?」
台詞を言い終わらぬ内に糞女房を後ろから羽交締めにして、そのまま俯せにひっくり返して肩に担いだ。
「ち、ちょっと!急に何!?」
じたばたと場所も考えずに暴れまくる糞女房を無視して家の奥に進む。目的地は他ならぬベッド。
「鬼の居ぬ間になんとやらってヤツだな」
「何よそれ!」
「これからゆーっくり教えてやる。覚悟しやがれ」
「な…!」

俺の上機嫌さと進行方向で諸々を察知して絶句する糞女房を担ぎながら、俺も一応は人間らしい感情も持ち合わせてはいたんだなと頭の片隅で思った。




【子供に嫉妬する蛭魔】 リクエスト下さった方に捧げます