伝染するナチュラル

 俺は今、糞マネの家にいる。そして糞マネのデコに冷却シートを貼っている。こいつの部屋で二人きりで、天気のいいアメフト日和の平日の昼下がりに、だ。
こんな状況誰が聞いても不可解極まりないだろう。俺もそれは同意する。


なぜこんなことになっているのか。事の始まりは朝来た一通のメールだった。

『熱が出てしまったので学校を休みます。今日頑張って治して、明日残っている作業を終わらせます。ごめんなさい』

 体調が良かろうが悪かろうが変わらない優等生然とした文体。内容に反して澄ました字面のそれに、眉間にシワが寄る。関東大会が近いっつうのに何してやがると肚の内で溢して、返信しようと指を動かしてふと気が付いた。あいつは昨日何か、大事なものを持って帰っていたような。しばらく考えを巡らせて、そして盛大な舌打ちを吐いた。
DVDだ。地区大会の神龍寺戦を焼いたDVD。
 関東大会まで二週間を切った今、やることは山積みだった。その内の一つにビデオの再分析があった。前回の分析内容と照らし合わせて、そこから作戦と練習内容を更に詰めていく。それを昨日のうちに終わらせて今日の練習から行う予定だったのだが、結局昨日中には終わらなかったのだ。昨日はやることが多すぎた。だから糞マネが持ち帰って、今朝再分析したものを持ってくるはずだったのに。 まさかの発熱。季節の変わり目と緊張感、膨大な仕事量に加えて授業も委員会も真面目にこなしていた。その疲労が出たのだろう。だが寄りによってなんでこのタイミングなんだ。糞。このままいけば、今日の練習どころか明日の朝練にさえ間に合わない。今は一分一秒でも惜しいのだ。悠長に待ってはいられない。
 朝練の後に糞マネにメールを入れる。今日の授業はフケる事にした。風邪っぴきを呼び出すわけにもいかず、自分で行くことにしたのだ。奴隷を使わずに、俺が、自ら、取りに行く。随分優しくなったもんだとは思ったものの、確実に手に入れるならそれが結局一番手っ取り早かった。メールを送信すると、返信を待たずに校門へと向かう。遠くから、どうしたのー授業始まるよーとかなんとか呑気な声をかけてくる糞デブに振り返りもせずにヒラヒラ手を振る。んなこたぁわかってんだよ。今は授業よりDVDだ、DVD。
ガムを口に放り込みながら、脳内のデータベースから糞マネの住所を引っ張り出す。最寄り駅から二駅隣。っつーことは取りに行って再分析しても放課後の練習には間に合う。よし。予定の確認を終えて、ガムを膨らませながら駅まで歩を進めた。


 目的の駅に着いた後、糞マネの家に向かう。部活の後駅まで送ることはあったが家に行ったことはなかった。そりゃあそうだ、付き合ってる訳じゃあるまいし。丁度携帯がメールの受信を知らせる。歩きながら中身を見やると『本当にごめんなさい。よろしくお願いします。』と思いの外あっさりとした糞丁寧な返信があった。『申し訳ないから、私が持っていきます』くらいの自己犠牲の精神の塊みたいな返事が来るかと思っていたが、状況と体調を考えて、俺が行った方が確実だと考えたのだろう。ケータイをポケットにねじ込んで、そのままサクサク人通りの少ない道を行く。
 いくつ目かの角を曲がった所で目的の住所に辿り着いた。「姉崎」と表札のかかった家の前には一台のタクシーが止まっている。家人が出かけるのかと思いながら門扉越しに中を覗くと糞マネの母親と思しき人物が、慌てた様子で家から出てきたところだった。何か声をかけなければ。そう思ったところで先手を打たれた。
「あら!?あなたヒル魔くんじゃない!?ちょうどいい時に来てくれたわ!」
糞マネとよく似た髪と瞳を持ったその人物は、頓狂な声をあげながら俺を呼ぶ。それより、何がちょうどいいのか。話しかけながら門扉をくぐって声の主に歩み寄る。
「そうですが、ちょうどいいとはどういう…」
「親類が倒れて急遽病院に向かわないと行けなくなったのよ!でもまもりの熱も高くて一人にするのが心配だったからいい時に来てくれたわ!」
俺が尋ねきる前に早口で捲し立てられた。勢い込んでドアを開けながら腕を掴まれて、
「14時頃には帰ってくるからまもりの事よろしくね!」
「いやあの俺はDVDを取りに来ただけで…」
「あなただったら任せられるわ!」
ね!と、キラキラ、という表現がしっくりくるような笑顔を向けられて、一瞬固まった所でグッと腕を引き込まれて気が付けば家の中だった。糞女の母親と体の位置が入れ替わる。この笑顔と強引さは、腹が立つほどアイツにそっくりだ。そのまま、よろしくお願いね!とお願いのフリした命令を残してバタバタと出かけてしまった。バタンとドアがしまって鍵がかかる音が響く。
…おい。何が起こったこれは。流れるような動きで監禁されてしまった。鍵を開ければ家からは出られるが、鍵がないから閉められない。さすがに病人の女を無施錠の所に放って行くなど、胸くそ悪い事はできなかった。
「糞…!」
天井を見上げながら呟いた微かな悪態が宙を舞う。
参った。今頃DVDを受け取って駅に向かっている筈だったのに。予定が狂いそうな予感がする。
っつーかおかしいだろ。確か糞マネの母親が試合を見に来たと聞いてはいたし、だからすぐ俺が誰なのか分かったのだろう、ということも解る。だからといって平日日中に街中ウロウロしている高校生に留守番頼むなぞありえない。糞風紀委員の母親だから、会ったら小言くらい言われるだろうと思っていたが。その上付き合ってもいない野郎を、年頃の、しかも高熱を出して寝ている娘と二人きりにするのか。任せられるわって、そう易々と任せてはいけないだろう。曲がりなりにも男だぞ、俺は。…まさか、母娘揃ってアレなのか?いやまさか。
 はぁーと色濃い溜め息が出る。頭痛がしてきた。俺の方が具合が悪くなりそうだ。だがここにいつまでも突っ立っているわけにはいかない。そう痛い頭を巡らせると二階から僅かに物音がした。糞マネの部屋は二階なのだろう。考えるのもバカらしくなって家に上がり込んで階段を上る。いくつかある部屋の中から気配がするドアをノックして、返事を待たずにそっと扉を開けた。
日中とはいえカーテンが閉めきられた部屋は思っていたより薄暗い。籠っていた空気が開けたドアによって僅かばかり動いた。部屋の主の高い体温のせいか10月なのに廊下より少し暑い気がする。微かな甘い香りと、むしりとした湿気が肌に触れた。
薄ピンクのカーテンに、小綺麗に片付けられた部屋。糞熊のカレンダーとベッドに鎮座ましましているどでかいぬいぐるみが、主が誰かを物語っている。…ベッドが狭くねぇのか、甚だ疑問だ。
 そっと体を部屋に滑り込ませ、静かに後ろ手でドアを閉める。糞マネが浅く早い呼吸を繰り返しながら、ピンクの布団を首まで被って眠っている。顔は青白いくせに頬が紅潮して息苦しそうだ。普段目まぐるしく表情を変えて忙しなく働く女を観察する。眉は顰められて碧い眸は瞼に遮られて見えない。そこを飾るように長い睫毛が揺れている。僅かばかりに開けられた口から吐息が漏れる。普段より赤みが増した唇が熱の高さを物語っていた。普段見慣れたはずの女が、何故か別の生き物に見えた。
 汗をかいたせいで粘着力のなくなった冷却シートがずれ落ちそうだった。部屋に足を踏み入れてこの状況を目の当たりにしたら、看病しないわけにはいかないだろう。知らない奴ならいざ知らず、ベンチから戦況を把握できる貴重な労働力だ。このまま風邪を長引かせて神龍寺戦で全力が出せません、なんてことはあってはならない。はぁ、と一つ息を吐く。今日の俺はどこかおかしい。DVDを回収してとっとと帰ればいいものを、看病しようなどと殊勝な事を考えている。半ば諦め気味に額にのせられた冷却シートを摘まむ。体温ですっかり温められてどろりとしたそれを剥がして、額をタオルで拭いてやる。その時図らずも指が肌に触れた。しっとりとして、熱い、得も言われぬ感触だった。一瞬、動きが止まる。タオル越しに額に手を置いたまま、視線を紅潮した頬に落とす。青白い肌に落ちた紅。程よい張りと弾力がありそうなそれに触れたい衝動に駆られた。それをぐっと押し込めて、サイドボードに置かれていた新しい冷却シートを貼ったところで、ゆっくりと糞マネが瞼を開けた。熱に浮かされて碧い眸が揺らめく。まだ微睡んでいるようだった。
「……あ…ヒル、魔、くん…?」
辿々しく俺を呼んだ。ほとんど吐息のような声だ。
「…おう。俺をパシるたぁ随分お偉くなったもんだなぁ、糞マネ」
聞いたことのない声色で、軽口を叩こうにもやや間が空く。
「ごめ、んね…」
「とっとと治しやがれ。寝てる暇なんざねぇんだよ」
「DVD…そこ、だから…」
そう言って、机の上のポータブルプレイヤーを指差した。中身と隣にあったノートを確認すれば八割方終わっているようだった。体調がこの調子じゃあ昨日の夜から辛かっただろうに、随分無理をしたものだ。時計を見れば、11時半を過ぎていた。
「テメェ昼飯食ったのか」
「え…まだ、だけど…」
DVDを受け取ったらすぐ帰ると思ったのだろう。やや戸惑った眼差しを向けられる。
「テメェの親に頼まれたんだよ。出かけてる間看病しといてくれってな」
実に不本意だ。それを言外に乗せて。
「お母さん、が…?」
流石の糞マネも、自分の母親のぶっ飛んだ行動に気付いたらしい。と、思ったのだが、次の一言でさっきより激しい頭痛に見舞われる事になる。
「そっ、か…ヒル魔、くんなら、だいじょうぶ、ね」
なにがだ。一体何が大丈夫なんだ。今この家に自分と俺しかいないのに暢気が過ぎる。…やっぱりコイツらはアレだ。揃いも揃ってド天然だ。天然は伝染るのか?そんなバカな。
「……食うモン持ってきてやるからじっとしてろ」
 ツッコむ気も起きず、そう言って部屋を出た。考えれば考える程頭痛しかしない。とりあえず、思考を放り出すことにした。この天然の巣窟じゃあ、そうでもしないと身が持たねぇ。台所に下りると、ご丁寧に粥が用意してあった。粥用炊飯器っつーやつだ。…まるでこうなる事を予想していたようだ。食えねぇ母娘だな、と思う。適当によそって部屋に持っていってやると、糞マネが上半身を起こして体温を測っていた。ピピピッと小さな電子音が響く。サイドボードにスペースを作って粥を置いて、よそった器を渡してやる。
「おら、食え」
「うん…ありがとう…」
器と引き換えに体温計を受け取って、チラリと見た。38度5分。
「チッ、まだ高ぇじゃねぇか。おい、明日も学校休め」
「え、でも、部活が…」
「万全じゃねぇ状態で行って何ができる。再分析が終わりゃあ明日くらいはなんとかなる。心配しねぇでも思う存分こき使ってやるからとっとと治せ。ケケケ」
「…もう、素直に心配、してくれればいいのに…。わかったわ、明日も、お休みします」
頬を膨らませながら最後の一口を口に運ぶ。そのとき不意に、その口もとに眼が留まった。密やかに開かれた唇。真っ赤に熟れた舌。粥を舐めとる仕草に何故か喉が鳴った。なんだ。何が起こっている。
「…どうしたの?」
「…食い終わったんならとっとと薬飲んでとっとと寝やがれ。テメェの親が帰ってくるまでここでDVDの分析するぞ」
「うん…わかった…」
沸き起こった何かによってできた間を誤魔化す様に、寝るよう促す。これは、悟られてはいけない気がする。
 糞マネが床についたのを見届けて、机の椅子に腰かけた。ヘッドフォンとプレイヤーをセットして、ノートを開く。ヘッドフォンを着けると周囲の音から隔絶された。そうすると、自然と思考に没入して、五感が尖る。まだ、プレーヤーからは音は出ていない。鼻腔を擽る甘い馨り。上下する布団の動きで揺れる空気。
飯を食ったせいか、肌の青白さがやや健康的なそれに変わっている。呼吸に合わせて栗毛の髪が揺れ動いた。所々汗で張り付いたそれのせいで、妙に妖美に見える。また、喉が鳴った。ヘッドフォンのせいか、音が耳の奥に響いて嫌に遺る。肚裏から何かが迫り上がる気がして眸をキツく閉じた。背筋に冷たい汗が流れる。この感情は知っている気がする。そして、今は無用なモノだとも。
 そこで糞母娘に言われた事を思い出した。何が任せられて、何が大丈夫なのか。俺が女に興味がないとでも思ったのか。それとも、理性を手離すような真似はしないとでも思っているのか。そんなもの、なんの根拠もない。理性なんてものは、気を抜けばすぐに慾望に埋もれてしまう。現に今、躰の底で感情が蜷局を巻いている。凪ぐには程遠い。躰が熱い。冷静なつもりでいたが、もしかしたら此処に来たのは何かを期待していたからなのか。否、と一度頭を振る。だが思考は飛ばない。視線が女の唇の上を無意識に滑る。彼処に俺の其れを落とせば風邪と一緒に奴の天然も伝染るのだろうか。そうなればどんなに樂か。そうしたらこんな澱んだものに気が付かずに済んだのだから。ずるずる思索に耽っていると、漸くDVDの再生が始まった。ここで耳が歓声と土を蹴る音で覆われて、やっと思索の坩堝から脱け出した。眉間に皺を刻みながら深く息を吐いて試合に集中する。今はまだ澱みに向き合うつもりはない。まだ関東大会が始まったばかりだ。今此処で澱みに呑まれたら、全てが、終わる。
 DVDを早送りしながら見た時計は、13時を回った所だった。あと、一時間。アメフトに集中すればこんな拷問は終わる。自分の澱みを自覚させられるなんてこんな拷問あってたまるか。決着は、クリスマスボウルの後だ。祓うのも向き合うのも全て、その後だ。それまでテメェは気付くなよ。天然を貫き通せ。そしてそのまま、従順に働き続けろ。そうすれば、喰い潰さずに済む。
 プレイヤーの音量をあげて無駄な意識を締め出す。そのまま手元のノートにペンを走らせて分析に没入した。これ程までに時間が過ぎるのが待ち遠しいことはなかっただろう。歓声に耳を向けて動きに視線を集中させれば、まもなく頭の中はアメフトに染まった。これが終われば戻って練習だ。問題なく、元に戻れる。ガリガリとノートに書き付けながら、そっと、日常が戻るのを待った。




【風邪を引いたまもりの家で何故か看病をするヒル魔】 雷亜様に捧げます