原色

 全体を灰で覆った空から、白が降りてくる。空の色に侵されることを知らないそれらは、至って気ままに地上を白に染め上げた。そんな、白と灰しか色を持たない世界に、俺はただ漫然と立ち尽くしていた。
腕の中には、白い女。
 背に黒翼を携えた俺は間違いなく此の場にそぐわないのだろうが、そんなことには構っていられなかった。仮に、この白い世界にはお前は必要がない、と断言されたところで、根拠がないと吐き捨てるだろう程に、そんなことが俺には関係がなかった。
 白い雪が、黒翼にゆるゆると降り積もる。だが絶対零度を保つそれらはなぜか俺の体温を奪うことはなかった、それは、腕の中の女のせいか、それとも俺の神経がいかれたせいか。腕の中の白い女は、純白の翼をもっていた。薄茶の紙に白い肌、碧い瞳。なさに、絵に描いたような「天使様」というやつだった。そんな純白であって然るべき天使様が、いつからか「純白」ではなくなった。そして空に戻れなくなった。白いには白い。ただ、純粋さを欠いている。それに気が付いた時は、新雪を踏みしめた時の快感に酷似したものを得た。だが、突き詰めれば、女を「そうした」のは紛れもなく俺だった。そして女を地上に留めたのも。
女を、穢したのは、俺だった。
 降りしきる雪が、女の上にも容赦なく降りかかった。だがそれらは女を侵さない。いつから俺の翼は護る事に使われ出したのだろう。今までなら他人を脅かすことはあっても護る事などなかった。人の事など省みない。やりたい事をやりたい様にやる。それが俺の仕事であったし存在意義でもあった。 ところがだ、俺の「意義」は、この白い女に会ってから一変した。生まれて初めて他人の為に、翼を広げてやろうと思ったのだ。そのせいか、俺はいつしか空を駆ける事ができなくなった。それが原因だ、と言われたら大声で嗤ってやるつもりではいるのだが。俺がいた世界にはなかった雪が、俺の翼に降り積もり、そして白く透かしていく。それに気が付いた女が、小さく身じろぎして言葉を吐き出した。
「…ねぇ」
「なんだ」
「もう、やめて」
「理由がねぇ」
「理由なんて…!」
 そこまで言って言葉を詰めた女は、信じられないと言った体で俺を見た。俺は素知らぬ顔をした。あえて言葉を言われずともわかった。この女が言おうとしていることなんざ、天気を予測するより容易かった。それに、俺の心配をするより先に、自分の心配をしろと言いたかった。だがそれは言わねぇ。それは俺のもとよりひねくれた口がそうさせなかった。女の翼を形作っている羽が、一枚ずつ剥がれていっている、なんて事は、俺が口にしてはいけない事だとも、言われなくてもわかっているつもりだった。
「なんてことはねぇよ」
「…」
「俺とお前はもう同じだ」
「…」
「くだらねぇ『色』で分けられることもなければ、『翼』で分けられることもねぇ」
「…うん」

そこまで言わされて、女は漸く返事をした。女はただの慰めだと思っているのかもしれないが、俺にしてみれば贖罪と同じだった。

「背中に生えてるもんがなくなるだけで区別がなくなる訳だ。安いもんだろうが」
「そう、だけど」
 最後の最後で女が逡巡を見せた。そのタイミングで俺の最後の黒翼の片鱗が消えた。同時に、女の羽の最後の一枚が新雪に混ざって消えた。これで、お互いを分けていたものが消えてなくたった。だが、そうはいっても俺の罪はそう簡単に消えるものではないのだろうが。痛みはまるでなかったのだろう、女は特に苦痛に悶えるようなそぶりは見せなかった。そのくせ酷く辛そうな顔を俺に向けた。この期に及んで、その顔はできれば見たくはない、というのは、俺のエゴなのだろうか。
「ごめん、ね」
 女は俺の翼の生えていた位置に手を伸ばして、ゆっくりさすりだした。まるで、幼子をあやすようだった。馬鹿にすんじゃねぇよと一笑に付してやろうとして、それは止められてしまった。そのままそっと柔らかい唇が、俺のそれに触れたからだった。その体温を受け止めながら、言葉にできなかった謝罪を女の唇に落とした。
※2010/1/31発行 アンソロジー「INFINITY」より