咽び泣く声

「一々煩ぇんだよテメェは」
切っ掛けは、俺が呟いたこの一言だった。


 平日は仕事、休日はアメフト。結婚しても尚学生時代となんら変わらないサイクルで動き続ける俺のスケジュール。唯一変わったのは週一程度の買い物くらいか。それでも家に帰ればアメフトの資料編集が待っている。休む暇なんかありゃしねぇが、今迄もこれで来たしこれからもこれで行くつもりだ。多少の体調の変化なんか知るか。結婚してようがしてなかろうが俺は俺だ。帰れば糞女房が家にいるっつーだけで俺の独占欲はいくらか満たされていたし、何か言いたそうな顔をする糞女を見てもどうせいつもの小言だろう程度にしか思っていなかった。
それが、誤算だったのかもしれない。
 今にしてみれば、何かを言う事さえも堪えていたと思った方が筋が通る。そうでもなければ現状の説明がつかねぇ。音も無く、動作も無く、決壊したダムの如く止めど無く涙を流すこの女の説明は。

 最近は、土曜も日曜もなかった。下手をすれば一週間の内一日だって家にいない時もあった。そんな時期の、日曜日。ついこの間までなら糞女と買い物に出かけて飯を食って帰る、なんて過ごし方をしてたもんだが最近はそんな暇さえなかった。今朝もまた、平日と変わらない時間に起床し、こうしてパソコン相手に仕事をしている。正直、寝ている時間さえ惜しかった。後ろで、物音がした。恐らく糞女が起きたのだろう。その気配にも特に気にかける事さえ無く、仕事に没入した。背後に近寄った女が、息を飲む気配がしたが無視した。
女が、口を開く。
「妖一…?日曜日くらい、もう少し、寝てたらいいじゃない…」
無視。
「最近はいつ寝てるのかもわからないくらい働いてるし」
無視。
「アメフトも仕事も大事だけど、体壊したら元も子もないわよ」
無視。
「…ねぇ?」
全く反応を返さねぇ俺を訝って、返事を促された。振り返る気さえ起きず盛大な溜め息をついて吐き出した一言は、どんな言い訳より質の悪い一言だった。
「一々煩ぇんだよテメェは」
 そのまま、糞女が反応を返さないのをいい事に、パソコン相手に仕事を続けた。俺は、「夫婦」と言うものを甘く見ていたのかもしれない。その上、あの女の価値さえも、蔑ろにして。気がついた時には、手遅れだった。それから何分が経っただろう、未だ動く気配を見せない女に悪態の一つでも吐いてやろうとして振り返った時。
俺は自分の愚かさを呪った。
女が、その場で物音一つ立てる事なく泣いていたのだ。棒立ちのまま、顔を覆う事もなく。
そういえば、コイツの肌はこんなに青白かったか?
そういえば、コイツはこんなに頬がこけてたか?
そういえば、コイツはそう易々と泣く女だったか?
今まで抜け落ちていたこの女との日常が、じわじわと、戻ってきた、気がした。
「なに、よ…今まで我慢してた、のよ…?」
矢が、臓物を射抜く。
「本当は、前から、心配で心配で、不安で眠れなくて」
また一矢。
「何度休んでちょうだいって、言おうと思ったか」
また一矢。
「何度側に居てちょうだいって、言おうと思ったか…!」
また一矢。
「今日のは、もう、我慢が出来なかったから、だから、せめてちゃんと眠って欲しくて、言ったのに」
また、一矢。
「そんな言い方、あんまり、よ…!」
あぁ、後は心臓を射抜かれるのを、待つばかり。
「私の存在は、貴方にとって何…!?」
感情なんて厄介なモンを持つようになったのは、いつからだ?
「…おい」
 音も立てずに泣く女を、とりあえず呼ぶ事しか出来なかった。排出する術を持たなかった感情が、女の中で破裂した瞬間だった。その場に直面したにも関わらず、気の利いたセリフの一つも吐けない俺の愚かさたるや。
反吐が出る。
「もう…知らない…!妖一なんか…知らない…!」
 嗚呼、心臓から、朱が吹き出す。
女は振り絞る様にそう吐き捨てて、寝室へと逃げ込んだ。まもなく響く、鍵の音。その直後訪れる、静寂。今までこんな片方に全ての否がある喧嘩なんざした事があったか。喧嘩なんか一度や二度じゃなかった。高校から数えればもうきりがない程に。それでも感情が一方通行になるような喧嘩はなかった。今の様に、まるで相手の存在を無視した様な感情のぶつかり合いは。いや、ぶつかってさえいないのか。俺は振り返った格好のまま身動きさえ取れず、再び女を呼ぶ事さえ出来なかった。辺りには一つの物音も聞こえない。今までの日常の音の一粒だって聞こえなかった。
朝の冷たい空気に紛れた女の嗚咽は、音と呼ぶには小さ過ぎ、空気と呼ぶには大き過ぎた。
「…糞っ!」
 居堪れなくなって虚しく伸ばしかけた右腕を、忌々しげに握り締めてテーブルに叩き付けた。殴られたテーブルはガタンッと大仰な音を立てただけで、事態の解決には何の役にもたたなかった。それからどの程度時間が経ったのか、仕事も手に付かず飯さえ食う気も起きずに、代わりに寝室のドアの前から一歩も動けずにいた。止む事を知らない嗚咽。嗚咽が聞こえぬ様に耳を塞ぐ事もできた。泣くなと叫んでドアを叩き破ったってよかった。
だが、どれもが違う。
どちらの選択も、結局は傷を更に抉るだけだ。こういう時に、俺の頭脳は役にたたない。他人の感情の方向を知り得ても、共感する事を知り得ない俺の頭脳は。たった一言謝る事を、強く拒む俺の心理さえ分析しきれない俺の頭脳には。
それならば。まず、目の前の壁を。
「…おい。ドア、開けろ」
 一見命令口調で吐き出されたその台詞は、音になってみれば意外にも懇願する様な響きをもって空気中に漂った。到底、自分の口から吐き出されたとは思えない響き方をして。

「…い…や……」
ほとんど嗚咽と変わらない拒絶。
「まともに喋れもしねぇだろうが。ドア開けろ」
 飽く迄口調を緩める事もせず、それでも空間を震わせるのは懺悔にも似たそれだった。続く沈黙。小さな金属音の後、やがて崩れる、眼前の壁。無意識に緊張で乾いた口内を無理矢理飲み込んだ唾液で湿らせて、一歩部屋に踏み込んだ。外界の光を全て遮断する様に閉められた遮光カーテン。薄暗く、ひやりとした空気を湛えた部屋の入口のすぐ側に、己の身を守る様に壁に背を預け膝を抱き寄せて蹲る、女。顔は伏せられたままだ。強いと思っていた女の、意外にも脆い部分を見た。
小せぇ、な。
抱いた感想はそれだった。常に笑い、怒り、時には泣いて感情を素直にぶつける女は、感情を殺す強さをも併せ持った筈の女は、自分の想像以上に小さかったのだ。そっと柔らかい栗色に触れて、身を屈める。びくりと微かに女の体が震えた。それでも尚、嗚咽は響く。ゆっくり後頭部に手を回して、そっと、胸に押しつけた。そして、一言。
「…悪ぃ」
「……!」
もう一度体が跳ねて、俺の服の胸元を膝を抱えていた筈の女の手が掴んだ。まるでそこから逃げ出さない様に。
「……バカ…!妖一の、バカ……!」
押し殺した嗚咽は、そこで漸く開放されて少しずつ音量を増していく。
「…あぁ」
一つだけ、小さく同意して。
「私は、貴方にとっての何…!?私…此処に居ても、いいの…!?」
「…当たり前だろうが」
女の顔を上げさせて、腫れ上がった瞼を撫でて、
「それに俺にとって、テメェはな、」

唇に、懺悔と悔恨を込めて、愛しい女の唇に。




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