憑物

 眼を開けているのか閉じているのかさえわからない。それ程の闇の中一人ただ立ち尽くす。そんな光さえ届かない筈の闇の中に、なぜか、見せつける様に眼に映る、赤。 ぬめる様なそれでいて惹かれる様な



 蛭魔は一人、闇と赤の真中に立つ。光を映さない眼は広がる赤を、光を掴もうとしない右手はぬめる赤に染まった刃を、映し、掴んで、脳は何を考えるでもなく、何かに取り憑かれた様にその場にただ立ち尽くす。不意に足下の赤に影が落ちる。赤しか映さなかった眼が、影の正体を映し出す。蛭魔の思考が、ようやく動き出す。

 あぁそうだ。俺は欲しかったモンを手に入れたんだ。近付きゃあ離れ、離れりゃあ近付く鬱陶しいこの女を。万人に好かれたこの女を。一番欲しいもんを手に入れたんだ。
もうどこにも行かねぇ
もうどこにも行かせねぇ
もう誰にも触らせねぇ
万人に好かれる必要はねぇ
テメェは俺の為だけに存在してりゃあそれでいい。だがテメェはそんな俺の意思を許さねぇ

だから、切り取ってやった。テメェの周りから光を、テメェを俺の闇に引き込む為に、テメェがもう抵抗出来ねぇ様に。
赤く熟れたてめぇの心臓に、俺の切なる願いを打ち付けてやった。

なぁ、気分はどうだ?
姉崎まもり

 赤い海に沈んだまもりの貌を呆然と眺める。ぬめる赤が映える白い肌。赤を吸って白に絡む栗毛の髪。開かれたまま二度と光を宿す事のない碧い双眸。何か言葉を紡ごうとして歪められたままの唇。

蛭魔の貌にごく自然な、不自然な程に自然な笑みが浮かんだ。
狂喜に取り憑かれた貌のまま、ゆっくりと体を屈める。
愛しそうに、狂気の赤を吸った髪に触れ
愛しそうに、狂喜に彩られた眼を細めて
まもりだったものに、唇を、寄せた。


唇を寄せたのと眠りから覚醒したのは同時だった。蛭魔は勢いよく布団から起き上がる。
夢…か…?
あまりにもリアルであまりにも非現実的な、夢。真冬だと言うのに髪も寝間着も汗でじっとりと濡れ、寝ていた筈なのに息は上がっていて。今まで見ていた「それ」が夢か現か判断出来ずにいたが、隣りで穏やかな寝息をたてているまもりを見て安堵の溜め息をついた。まもりに対する独占欲の強さは自覚していた筈だった。だが付き合ってからも未だ尚、これ程までに酷いとは

―全てを奪ってでも手に入れたい程とは―

思ってもいなかった。
眉間に皺を寄せ、唇を噛み締めながら優しく、壊れ物を扱う様に栗毛を指に絡める。蛭魔は誰にも聞こえないような小さな声で、まもりの穏やかな寝顔を眺めながら、呟いた。
「…コイツは誰にも奪わせねぇ。他の誰にも、俺の中の憑物にも、誰にもな」
時計が示すのは朝の5時。
「…シャワー浴びるか」
そう呟くと蛭魔はなぜか鉛の様に重い体を起こすと、汗を流す為に浴室へと向かっていった。
その行為は、身を清める様に良く似ている。