歪 前編

外は黒く分厚い雲に覆われ止どまる事を知らない雨が視覚と聴覚を支配していた。
バタバタと屋根を揺らす雨、窓の外は穴が開いているのかと思う程の闇。
そして、時折鳴り響く雷鳴。

そんな、不穏な日。


 部室に響く大仰な音を立てて、イスが倒れた。明らかに普段と違うそれに気圧されて、女は後退る。そんなことはまるで気にせずに、ゆうるりと女を壁際に追い詰める。その眸は、どこか遠くを視ているようだった。背後を壁に阻まれて身動きができなくなった女の肩を、今までの緩慢な動きは嘘だったように細い指が食い込む勢いで壁に押し付けた。
「っ!」
急激な痛みと圧に、歪む顔。それを漫然と眺める男。
「ヒ…ル魔くん…これは…何…?」
到底理解出来ないと、理解したくないといった顔で、男を見た。


 俺は、まるで人事の様にそれを見ていた。まるで自分じゃないような、俯瞰で覗き込んでいるような、そんな感覚。そこは練習が終わった部室で、常通り二人きりだった。やることは山積で、時間がいくらあっても足りない。今日は特に夕方から急速に変化した天気によって、図らずも足止めされていた。足止めはともかく、よくある光景だ。練習後。残務処理。二人きり。だから、それは何もおかしい事はなく、極々当たり前の事だった。

だが。

糞女は、いつもの場所ではいつもの事しか起こり得ないと思っていた。イレギュラーは起きない。いつも通り、平坦に過ぎるだけ。
それが、テメェの敗因だった。
日常は、常に危険を孕んで成り立っている。

今、テメェの眼前で、起こっている事が、まさに、それだと。そう、思わねぇか?

俺の中の何かはいつも機会を窺っていた。いつ、殺せるかと。いつ、喰らえるかと。今日がまさに、絶好の機会だった。分厚い雲。覆う闇。視覚も聴覚も塞ぐ雨。俺の中で何かが軋む。何かが歪む。何かが凶器を俺に向ける。本能が理性を食い潰す。
静かに。しかし、確実に。

まずい。そう思った時にはもう手遅れだった。

自分の意志とは裏腹に、糞女の両肩を固く掴んで壁に強く押し付けていた。少し視線を下に向ければ、怯えて揺れる碧眼と、震える肩が目に入った。その瞬間、俺の背筋にゾクゾクとした痺れのようなものが走った。嗜虐心が煽られて、口元が歪む。

ああ、そうだ、俺は。

弱った表情を決して他人に見せることのない顔。怯むことを知らなかった糞女の碧眼が、俺によって瓦解しようとしている。俺によって、脆いテメェが詳らかにされていく。

そうだ、俺は。周囲にばら撒いている表情だけじゃない。俺に挑んでくる強い碧眼だけじゃない。
テメェの、全てが、欲しかった。

「ねぇ…ヒル魔くん…!答えてよ…!」
もう一度、女の声がする。それは、僅かに震えていた。本当はもうテメェもわかってんじゃねぇのか。俺は、まさに今、テメェを喰おうとしている。ひた隠しにしていた『奴』が。俺の中の『奴』がテメェを貪ろうとしている。だがンな事までテメェが知る必要はねぇ。

むしろ、知るんじゃねぇ。こんなキタナイモノを視たら、その澄んだ碧眼が穢れてしまう。そんな心中を知ってか知らずか、身動きが取れない女が抗うように俺を見据えた。いつもの澄んだ碧ではない、どこか影を湛えた眼で。それを覗き見て、俺は戦慄した。碧眼の奥で揺らめく強い光。それは、撥無だった。

肩に食い込んだ指が緩む。途端に体が重くなって、ずるりと後退った。確かに俺はテメェが欲しい。どんな表情も行動も、テメェを構成するモノなら全て。テメェのその、怯えた貌さえも、全て。

だがその眼は。
俺を亡かった事にする、存在さえ消してしまおうとするその眼だけは。

耐えられねえ。
それは、それだけは。

それは、俺が恐れていたモノだった。ごくり、と生唾を嚥下する。僅かに遺った理性が『奴』を踏み止どまらせた。ようやっと解放された女は己の両肩を抱きしめるように抱えながら、それでもこちらから眼を逸らさない。その眸からは先程までの拒絶の色は消えていた。代わりにあるのは案じる様な色だ。
俺はその眸を見て小さく安堵して、強く眸を瞑って踵を返した。
「…なんでもねぇ。帰る」
すぐ近くにいた女の馨りが遺る。手にはまだ、女の感触もぬくもりもそのままだ。女の残滓が纏わりつく。
早く。早くこの場を離れろ。
一緒に居てはいけない顔を見てはいけない聲を聞いては、いけない。
今それをすれば、次こそ自制が利かなくなる。すべてが欲しいと思った女を、自ら喰い潰してしまう。

『奴』が蠢く。『奴』が囁く。

『喰らってしまえ。自分の、意のままに』

エゴに、吐き気がした。渦巻いた欲と狂気に飲み込まれそうになる。こんな咽せ返る様な禍々しい空間にいるくらいなら、外で雨にうたれた方が何倍もマシだと思った。一度も振り返ることもせずに、鞄を乱暴に掴んでドアに向かう。ドアに近づけば雨と轟く雷の音が更に強くなった。

その時、背中に軽い衝撃。

一瞬何が起きたかわからなかった。胴に回された腕、背中の温もり、女の匂い。さっき振り払った筈の残滓だった。思わず息が詰まる。そして、堪らず舌打ちした。
「…おい…何のつもりだテメェ…」
「何の、つもり、は…私の、セリフよ…っ!」
女は泣いていた。
怯えとか恐怖とかそんな女々しいもんじゃなく、長い間堪えていた何かが決壊した様な、涙。

ヤメロ チカヨルナ

「…何のつもりだ」
「さっき、の、あの顔…」
普段は驚異的に鈍感な癖に、妙な所で聡い。思わず唇を噛んだ。
「なんで、あんな顔するの…!?あんな…」
呟いて、背中で泣き続ける、女。ブレザーが涙で濡れる。冷たい筈のそれが、何故か異様に熱い。

『奴』が、また蠢く。また、歪む。

「…おい、離れろ」
「いや…離れない…!」

何、考えてやがる。

「テメェを犯そうとした男だぞ。イカれやがったか?」
「いい…」
「あ?」
「ヒル魔君なら、いいよ」

女の手が制服をより強く握り締める。噛んだ唇が切れて、鉄の味が広がる。
俺を捕らえたのは凶器か、それとも狂気か。理性が、弾け飛んでしまう。

モウ、無理、ダ。

女の手を引き剥がし、その勢いで腕を掴んで背後のカジノ台に押し付けた。台が、けたたましい音を立てる。まるで何かの叫びか悲鳴の様な、悲痛な音に聞こえた。
「痛っ!」
「自分が言ってる意味、解ってんのか?」
喉が詰まってうまく声が出てこない。
「わかっ、て、る」
「付き合ってもねぇ奴にヤられてもいいのかよ」
「だっ、て、たぶん、ヒル魔くんのこと、す、すき、だから…」
ヒュッと短く息が俺の喉から抜けた。眸が知らず見開かれる。
「さっきは、怖かったけど…でも、ヒル魔くんは、ヒル魔くん、だもの」
無理な体勢で押さえ付けられているにも関わらず、その顔は笑みさえ刷いていた。
この状況でよくそんな顔ができたものだ。ぞわりと何かが這い上がってくる。速い鼓動が頭蓋に響く。
箍が、外れてしまう。
「…後悔、するなよ」
縋るように一言だけ呟いて、噛みつくように唇を貪った。