水辺と太陽。

 太陽が一年のうちで一番意地が悪くなるこの季節。酷く攻撃的な太陽光のお陰で兎に角水場に逃げたくなるもので。そんな訳で我が家のベランダにも小さい水溜まり、もといオアシスが口を開けていた。
 パシャパシャ小さな水音を立てて小さな飛沫が無数に上がっては太陽光を反射する。飛沫を立てるは小さな足。 キャッキャと楽しそうな歓声を上げてビニールプールの中を踊る。自由気ままなステップで。 蛭魔はベランダの入り口に足を組み、その上に肘を付いて座っていた。飽きもせず。ぼんやりとその光景を眺めながら。外はもう茹だるような暑さで、今こうしている間もそれこそ噴水の様に毛穴から体の水分が噴出している。それでも只管其れを眺める。耳が隠れるくらいの長さに切りそろえた栗毛を軽快に揺らしながら楽しそうにこちらに笑顔を向ける幼い娘。髪の色も眼の色も表情さえもあの女をそのまま映したかの様な愛娘はこちらを見る度に嬉しそうな表情を見せる。その顔を見ては頬が緩むのを感じて、かつての自分じゃ想像も付かねぇような変貌を遂げたな、とらしくもなく自嘲的な事を思った。 生暖かい風が吹いてまだまだ柔らかくて細い栗毛を揺らす。それが立ち上がる水飛沫と共に意気地の悪い陽光を綺麗に反射して穏やかな物に変えていくものだから、それをまたらしくもない表情で傍観したのに気が付いて、あぁ、どこまで毒されりゃ気が済むんだ、と呆然と思った。そんな時、背後から足音が聞こえた。キッチンからパタパタと音を立てて近付いてくる。
「はいはい、水分取らないと干からびちゃうわよー」
まもりがそれぞれサイズの違うグラスをお盆に載せて持ってきた。
「おー」
そう返事をして傍らに置いてあったバスタオルを持って立ち上がり、すっかり温くなった水を湛えたビニールプールへと近寄る。
「ぱぱー」
 近付いた蛭魔を見つけて翳りのない笑顔で笑った。小さい手をいっぱいいっぱい広げた娘―彩菜をそっとバスタオルで包んで抱き上げる。まるで壊れ物を扱うかの様に丁寧に。まもりはその様子をこの人にこんな一面があったなんて当時じゃ予想もできなかったわね、と思いながら見ていた。激しくわかりにくいものの優しい一面があるのは知っていたけれど、ここまで穏やかになるとは正直思っても見なかったから。
「一旦休憩だ。ジュース飲みてぇだろ?」
「のみたーい」
 キャッキャッと楽しそうに腕の中ではしゃぐ彩菜を見る蛭魔のその表情や眼が、自分を見る時のそれらとはまた違った穏やかさを持っていて、ほんの少しジェラシーを感じた。まぁ私に対して穏やかな眼とか表情をするなんて事はほとんどないから余計感じているのかも。そう思ったら自然と笑いがこみ上げてきた。
「何笑ってやがるんですかー糞奥様ー」
「おくさまー」
二人で笑いながらベランダの入口に腰を下ろしたのを見て、そのすぐ側にお盆を置いて自分も座る。
「なんでもないですよー」
 ついつられて更に頬が緩むのを感じながら、膝の上に座る彩菜を拭いていた蛭魔にアイスコーヒーとオレンジジュースを渡した。蛭魔は膝の上で一所懸命にストローでジュースを飲む彩菜の肩にタオルをかけて、こぼさない様にグラスの下に手を添える。その隣りでオレンジジュースを飲んでいたまもりは、こてんっと頭を蛭魔の肩に載せた。蛭魔はそれが極当たり前の様に気にも止めずにアイスコーヒーを飲み干して、空いた手でまもりの髪を弄ぶ。若干汗ばんだ髪は細かい束になって指に絡む。それでも柔らかさを失わないそれの感触が心地が良いと思う様になったのはいつからだったか。外では相変わらず太陽が捻くれた光を撒き散らして、蝉がそれを煽る様に喚き散らしていたが、不思議と不快には思わなかった。昔ならば腹立ち紛れにマシンガンを打ちっぱなして回りが逃げ惑っていたであろうに。そんな事を頭の片隅で思った。3人でぼうっとして、ゆっくりと流れる時間に漂う。
「ぱぱー」
ジュースを飲んでいた彩菜が上を見上げて蛭魔の顔を覗き込む。
「おー?」
まもりの髪に指を絡ませたまま隣りの女にそっくりな色をした眼を見遣った。
「あのねー、あや、ぷーるにいきたいのー」
「プール行きてぇのか。うちのアレじゃちっちぇえか」
チラとビニールプールを見る。
「うん。あれもすきなんだけどねーぱぱとままといっしょにはいれないから」
そういえばプールには行った事なかったねーと隣りの女が言う。
「だからねーいつでもいいからつれていってほしいの」
隣りと思わず顔を見合わせた。
いつでもいいから。
 実のところ蛭魔はアメフトの試合や練習で、休日とはいえ家にいる、という事があまりない。今日こうしてのんびり過ごすのは随分と久しぶりだった。もうすぐ4歳とは思えない程物分かりが良く、聞き分けがいい娘。それでも主張するところはきちんと主張するものの、相手の都合を伺う様な物言いは、一体どこで学んだのか。まもりが複雑そうな笑みを浮かべる。
「そうね。今度プール、行こうね」
そう紡いで愛娘の額を撫でてやる。蛭魔は眼を空に向けて思案している様だった。一瞬の間の後、すっかり氷も溶けた小さいグラスをお盆の上に置いて、小さな体を抱え込む。
「プールなんかよりでけぇモンを見てぇと思わねぇか?」
「え?」
「ぷーるよりおっきいの?」
きょとん、と4つの碧い眼が蛭魔を見る。視線を下に戻して言う。
「おーでっけぇぞー。温くもなんねぇしな。魚もいっぺぇいんぞ」
「おさかなもいるの?」
「あぁいるいる。腐る程な」
なんの話をしてるのよ。この人は。訝った眼で彩菜と話す蛭魔の顔を覗き込む。
「ちょっとなんの話をしてるのよ?」
こちらに顔を向けて
「旅行」
目が点だ。
「は?」
「だから旅行行くんだよ。場所は沖縄」
「お、おき…!?」
「おきなわ?」
「そうだ沖縄だ。プールよりきれーだぞー。びっくりするくれぇな」
彩菜と向き合いながら頭上に高く掲げる。たかいたかーい。見たところまるで似ていないこの親子は、そっくりな笑顔を浮かべて笑い合っていた。当然彩菜は父親の様に口角が上がったりはしないのだが。
「で、でも妖一?休みは…」
「ンなモンどうとでもなる」
「どうとでもなるって…」
「あんだ?テメェは行きたくねぇのか?」
「い、行きたい、です…」
始めは狼狽えたものの、いつもの調子のいつもの口調で返されてつい本音で答えてしまった。 若干頬を染めて俯く。
「んじゃ決まりだな」
悪戯な笑み。
「海はプールよりでっけぇぞ。楽しみにしてろよ」
「うん!うみみたいー!」
 じたばた手足を動かして暑さなんか気にならないみたいに腕の中で踊る。今まで行きたいとは思っていたけれど、蛭魔の忙しさを思うと口に出せなかった家族旅行。でも案外言ってみたらすんなり行けたのかもしれない。それにしても娘の一言でプールから沖縄に話が飛ぶとは思いもしなかった。恐るべし子煩悩。外は段々と陽光の勢いがなくなってきていて、周囲をオレンジに染めつつあった。それでも体に纏わりつく汗。
「あっちぃなーシャワーでも浴びるか」
「あやもいっしょにいくー!」
「しょうがねぇなー」
そうは言うものの微塵も嫌そうには見えず、愛しげにその光景を眺めながらまもりは立ち上がる。
「じゃあ大きいバスタオルだしておくわね」
「あぁ」
 そう返事をした蛭魔も彩菜を抱き抱えながら腰を上げた。今日もまた、一日が終わろうとしている。極々平凡な、其れでいて穏やかな一日。高校の時分は絶対こんな人とは縁がないだろうと思っていたのに、結局蓋を開けてみればこうして契りを交わして結ばれて、娘を授かってちゃんと家庭を築いている。
理想と遥かにかけ離れた相手と一緒になった癖に辿り着いた先は理想通りだったなんて、なんて皮肉なんだろうなどと思いながら家族旅行に心を弾ませてキッチンへと向かった。




【子供がいる平凡な蛭魔家】 桃花様に捧げます。