眠れる闇

 部活終了後の部室。朝から引き続きありえねえ顔をした女がそこに居た。目の下に隈、生白い肌、生気のない表情。酷ぇ顔。慣れねぇ化粧で薄く隠しちゃいるが隠しきれちゃいねぇ。糞ガキ共は気付かなかったみてぇだが俺にはわかった。割と早い段階で。糞ジジイも気付いたらしく、俺に耳打ちしてきた。

『姉崎、なんかあったのか?』

なんで俺に聞くんだ。糞!
昨日までは普通だったクセに今日のこれは一体なんなんだ。今もこうして顔を突き合わせて締めの作業に入ってる訳だが、パソコン越しにちらつくあの女の視線が俺の上を滑る度に微かに吐かれる溜め息。そのクセそんな動作をするにも関わらず俺と眼が合いそうになると必ず眼を逸らす。腹立たしい。糞。文句があるならいつも通りに向かってくればいいだけの話で、それなのに何故こういう時に限って言い淀むのか。それほど度胸のねぇ女だとは思わなかった。が 、恐らく。
 例のメモを目の前で堂々と破った後ろめたさがあるのか、この女の根底に根強く張り付く他人主義な部分が邪魔をするのか、言うには至らず言い淀んで終わってんだろうなと思った。同時にそんな眼ぇして様子を伺うくれえならなんか言われた方がまだマシだとも。少なくとも今のこの女の行動は俺の神経を逆撫でし、精神衛生上好ましくねぇ状況を強いているのは紛れもない事実で、そんな事にも気付かねぇ時点でこの女の状態はとんでもねぇ末期だった。普段余計な程気の利くこの女の性格を考えれば。こうなると、俺の頭脳は本来考える必要もねぇ事を考えざるを得なくなる。明日は元に戻ってるのかとか、ちゃんとこの女はいつも通りに仕事が出来るのかとか、冷静な眼で試合が見れるのかとか、普段ならまるで気にする必要のねぇ事を。パソコンをタイプする手を休める事なくそこまで思考を巡らせると、鬱積した苛立ちを吐き出す様な舌打ちが出た。無意識だった。そんな音を敏感に拾ったらしい女の肩がビクリと揺れて、もう一つ舌打ちした。今度は意識的にだった。糞。


* * * 


夢を見た。現実か幻かさえ判別のつかない、夢。

土に沈む、一人の男。
泥に塗れた躰、痣の浮き出た皮膚、歪な形にひしゃげた腕。
生気を失った、貌。
そこに在ったのは、見たくもなかった悪魔と謳われた男の哀れな最後、だった。

 床に就いてまもなく視たその夢で乱暴に現実に引き戻された。僅か数十分で脂汗に覆われた躰は、気持ちの悪い湿気を纏って私の不安を煽る。拭いても拭いても拭い切れない、嫌な汗。

寝なくちゃ。明日も朝練、あるんだもの。

無理矢理ベッドに身を沈めて、膝を抱え込んだ。それになんで、ヒル魔君の夢を見て、こんなに不安に駆られないといけないんだろう。何故だかわからない内在する不安から、恐怖から、まるで身を守る様に縮みこんで、必死に眼を閉じた。

それでも眠りの底で見たモノは、さっきの夢の、続きだった。

 そこに在ったのは、白い担架で運ばれた、生は在れども死せる悪魔を茫然と見下ろす自分の姿。介抱する事も、縋る事さえもままならず、ただ立ち尽くして、ただ眺めるしか出来なかった。ざわめいている筈の観客も、駆け寄って来ている筈のメンバーの声も、何も聞こえず、何も感じず、躰の底が冷えるのを感じて、自分の、こんな状況にも関わらず依然として冷静な部分が、死刑宣告に近い答えを弾き出した。

何故、不安に駆られるのか。
何故、恐怖に怯えるのか。
何故、今、泣いているのか。

 それはお前が悪魔を好いてしまったからだと、嘲笑う声がした。その瞬間、喉から悲鳴の様な咆哮の様な声が迸って、今自分が何をしているのかもわからなくなった。それと同時に、覚醒。今躰を覆うのは、脂汗だけではない。頬を這いずり回る、涙。流れても流れても止まる気配は、なかった。堪らずに上半身を起こして、必死に涙を両手で掬う。

「なん、で…なんでこんな…こんな夢見せるのよ…!」

 全く関係のない夢の登場人物に理不尽な怨み言をぶつけて、部屋の電灯からぶら下がる紐を乱暴に引っ張った。煌々と灯る、明かり。眼を閉じるのが怖くて、闇が怖くて、眠りに墜ちるのが怖くて。 毛布を被ったまま膝を抱えてベッドに座り込んだ。ずっと涙を、流したままに。その晩は、そのまま眠りに就く事はなかった。

 彼の舌打ちに、無意識に肩が震えた。あぁ、彼は気付いてしまっている。恐らく、ムサシ君も。何も言わずにいる方が一番いいのだと思い込んで、悟られない様に慣れない化粧までして隠して来たと言うのに。

これじゃあ、意味がないじゃない。

 例えセナ達に気付かれなくとも、彼に気付かれてしまっては、何も意味を成さない。そもそも、彼に隠し通そうとすること事態無理があったのかもしれない。ふう、と、諦めに似た深い溜め息を吐いて、コーヒーでも淹れようと席を立った。


* * *


 女が、溜め息を遺して席を立った。さて、どうしたものか。あの女は恐らく眠っていない。あの貌あの眼あの動き。あのまま、試合に挑むつもりなのか?あの糞女は。

「糞マネ」

コーヒーを持って戻ってきた女に、吐き捨てる様に声をかけた。

「…何?」

僅かに揺れる碧に、眉間の皺が深くなる。

「テメェもう帰れ」

それは心臓を貫く矢にも似た。驚愕に女が眼を剥く。

「な…だってまだデータ整理が」
「ンな状態で出来んのか?糞ガキ共は誤魔化せたかも知れねぇがな、俺と糞ジジイはとっくに気付いてんだよ」
「…!」

そんな事はさすがに本人も気付いちゃいたのか胸元で拳を握り締めて俯いた。

「わかったんなら帰れ」
「…」

そう言っても尚動く気配を見せない女に、不機嫌を隠そうともせずに言った。

「おいとっとと帰れっつってんだろうが」
「………ない、の…?」
「あ?」
「…怖くない、の?明日」

 俯いたまま、耳を澄ませなければならない様な声で紡いだその言葉は、一種の覚悟と疑念が綯い交ぜになった響きを含んで俺の鼓膜を震わせた。もし仮に怖いと言ったのなら、この女はなんと答えただろう。

「怖がってどうすんだ」
「…そう言うだろうと、思ってた」

 若干湿気を帯びた声でそう答えた女は、手の甲で顔を拭って漸く頭を上げた。僅かばかり潤んだ碧は、当惑の色を湛えて。

「私は怖くて怖くて仕方がないのに、どうしていつも通りに出来るの?」
「…」

今度は俺が黙る番だった。

「あんなメモまで渡して覚悟決めてたクセに、なんでそこまで普通に出来るのよ」
「…」
「私には出来ない…あんな状態を目の当たりにしてしかもああなる可能性が残ってるのにそんなに冷静でなんかいられない…!」

瞳から、雫が。

「…じゃあ聞くが、テメェは俺が恐怖に怯えてりゃ満足か?」
「…!」

ハッとした顔で、軽く眼を見開いた。

「俺が怯えてなんになる。それでチームが回るか?指示飛ばせるか?」
「それ、は…」
「そんなんで回るんなら司令塔なんざいらねぇ。チーム作る意味がねぇ。解りきった事聞くんじゃねぇよ」
「…!」

 女は涙を止める事もせず、怒りと悲哀を混ぜ込んだ様な顔をして俺を見た。糞、いい加減その顔やめろ。ガタンと、わざと大袈裟な音をたてて席を立つ。一歩、近付く。女は動かない。

「怯えて冷静にモノが見れんのか?分析出来んのか?勝機が見えんのか?」

女に詰問しながら、距離を詰める。そして女の鼻面に顔を近付けてもう一言。

「答えろ糞マネ」
「…!ご、ごめん、なさい…」
「答えになってねぇ」

完全に押し負けて後ずさる女。

「試合の前日にヤボな事聞いちゃったわ…。ごめんなさい」
「やっとわかったか、糞馬鹿女」

 女の表情が心なしか柔らかくなった気がして、これなら試合もいつも通りいけそうだなとデータを修正する。糞、手間のかかる女だ。

「わかったらとっとと帰ってとっとと寝ろ。そんな状態明日まで持ち越すな」
「…え?」

おい自覚はねぇのかよ。

「チッ、そこまで懇切丁寧に教えてやらねぇとなんねぇのか」
「え?何が?」
「…睡眠不足食欲不振情緒不安定思考力低下、おまけに極度の恐慌状態」
「あ…」
「こんな状態で仕事出来んのか?」
「うん…ごめんね。帰って休む事にする」

やっと理解したらしい。面倒臭ぇ。実に面倒臭ぇ。

「ヒル魔君も無理しないでね」
「テメェみてぇな馬鹿じゃねぇ」
「相変わらず酷いわね」

 そういう糞マネの顔は、いつもの顔と大差なかった。帰り支度をする糞マネの背中に、昼間ポケットに押し込んだ箱を投げ付けた。

「痛!ちょっと急に何?」
「睡眠導入剤」
「え?」
「寝付けなかったら飲め」
「…!あ、りがとう」

 視界の隅に糞マネの紅潮した顔が映ったが黙殺した。糞マネのせいで俺が飲む筈だった、睡眠導入剤。