華燭と凩

「……寒ぃ」
車から降りて数歩、マンションの自室に向かいながら蛭魔はポツリと呟いた。手に息をかけて暖をとろうとしたもののそれはほんの一瞬で、ただ空気を一瞬白くしただけだった。風が肌を撫でるだけで冷気がチリチリと弾ける。黒いマフラーをグイ、と顎まで上げて、舌打ちを一つ鳴らしてカードキーでエントランスを開けるとそのまま無造作に両手をポケットに突っ込んだ。心なしか早歩きになりながら、エレベーターの前に行くと乱暴に肘でボタンを押す。すぐドアが開いたエレベーターに乗り込んで階層ボタンを押した。使うのはやはり肘だ。どうやらポケットから手を出す気はないらしい。エレベーターの中と言えども外気とはさして変わらず風が無いだけマシ、と言ったところか。
「…またキー出さねぇとなんねぇじゃねぇか」
目的の階に近付く表示を見て、口を動かすのも億劫なのかボソリと苦々しげに呟いた。
 家に帰る為には、エントランス、居住階毎のエントランス、家のドアで三回カードキーを使う必要がある。マンションを買った時、セキュリティーは堅いに越したことはないと思ったのだが、今に限って言えば忌々しい事この上無い。只でさえ寒いのになんでわざわざ冷気に手を突っ込まなければならないのか。
 ポーンと落ち着いた電子音が鳴ってドアが開いた。さすがに高層階だけあって窓は嵌め込まれていて風もなく、冷気もいくらか緩やかだ。だがそれでも冷えきってしまった体には気休めでしかなかったから、暫くドアの前で逡巡して手早くカードキーをかざした。ドアが開くより先にポケットに手を戻して、ツカツカと歩を進める。今日は同居人は随分早く仕事から帰った様だから、今頃部屋は暖かくなっていていい匂いが立ち込めている筈だ。高校で知り合ってから十年足らずで、家にソイツが居るのが当たり前になっているとは回転が良すぎる蛭魔の頭でも思い至らなかった。ただその想定外は、意外にも不快を齎す事はなかった。それは同居人に絆されてしまったのか、それとも毒されてしまったのか。
ようやっと目的地に着いて、ガツンと肘でインターフォンを鳴らす。すると間もなくドアが開いた。
「はーい、おかえりー」
誘うような暖気と共に暢気な声が迎える。
「おう」
蛭魔は小さく返事をして素早く室内に入った。それも、迎えた同居人ーまもりを押し込みながら。
「ちょっ…押さないでよ!危ないでしょ!」
「煩ぇ!寒ぃんだよ!早く入れろ!」
「あ、それでインターホン鳴らしたの?もう、だから手袋したらって言ってるのに」
「いちいち外すの面倒臭ぇんだよ」
あー寒ぃ、とボヤキながらリビングに向かって行く。
「あ、手洗いうがいしてよ!今の時期風邪ひきやすいんだから!」
「へーへー」
鍵をかけて、まもりはキッチンへ戻りながら声をかけた。この勢いだとそのまま炬燵に潜り込みそうだったからだ。
 キッチンに戻って土鍋に火をかけて、沸くまでの間に食器や野菜を炬燵に運ぶ。リビングの一角に琉球畳の小上がりがありそこに炬燵が組まれていて、その上にカセットコンロが置かれている。ちなみに炬燵布団をロケットベアー柄にしようとしたもののこの世の終わりの様な顔をされて、結局シックなアラベスク柄に落ち着いている。
上下黒のスウェットに着替えた蛭魔はいそいそと炬燵に潜り込んだ。部屋は暖気に満ちていて寒気が入る余地はないのだが、随分寒そうに見えた。
「あー暖けぇー」
駐車場から然程距離はなかった筈だが、思いの外冷えていた様で足の先からじわじわ温められていく。肩まで布団を被り猫のようにじっとしている様は内心、誰にも見られたくないな、と思う。
「ふふ、そんなに寒いの?車で帰ってきたのに」
「風が糞冷てぇんだよ」
「そりゃそうよ、木枯らし吹いてるんだもの。もう冬だしね」
まもりは、もうもうと湯気をたてた鍋をカセットコンロに置いて、カチリと火をつける。中には丸い塊がいくつも出汁に揺られていた。
「なんだこりゃ」
「つくねよ!時間あったから手作りしちゃった。あ、今ご飯よそうからお野菜入れといて」
そういってパタパタとキッチンに戻っていく。蛭魔はもぞもぞと腕を炬燵から引っ張り出して野菜をばさりと放り込んだ。その度に鼻を擽る鰹節と昆布の出汁の香りが胃袋を刺激して、急にお腹が空いてきた。すっかり胃袋をつかまれてしまっている。うっかりそれを自覚して、一瞬動きが止まった。
「…絶対ぇ言わねぇ」
「何が?」
「ナンデモ」
僅かな抵抗が思わず口から出た。聞いたものの答えはないだろうと思ったのかまもりは、はい、と短く声をかけて茶碗を渡す。炊きたての香りが更に食欲をそそる。
「そういやテメェ随分帰るの早かったな」
「そうなの、今日くらい早く帰ったらって言ってくれてね。ほら、最近ずっと遅かったから」
 まもりは今、幼稚園から大学まで運営する学校法人でスクールカウンセラーとして働いている。ここ最近は急に寒くなったせいか、体調と平行して精神的にも調子を崩す子供が増えていて仕事が山積していた。定時で上がるのは随分と久しぶりだ。
 まもりも炬燵に足を入れてほどよくしんなりした野菜を呑水に取り分けていると、ふとした拍子に足が蛭魔のそれに当たった。
「あれ?あれだけ寒がってたのに足は冷たくないのね」
「誰かさんと違って鍛えてマスノデ、冷え性とは無縁ナノデス」
「もう、わざわざそんな言い方しなくてもいいでしょ」
そう言いながら足をそのまま絡ませてみる。見ても触れても、自分のそれとは随分違うなぁと思う。
「はい、どうぞ」
「おー」
蛭魔は野菜とつくねと豆腐が盛られた呑水を受け取って、まずつくねを口に放り込んだ。出汁がよく染みて生姜が薫る。それから、コリコリと軟骨が砕ける音がした。なかなか手が込んでいる。
「うめぇ」
「ふふー、でしょー?気合い入れて作ったんだから」
珍しく素直に感想を述べた蛭魔にまもりははにかんで、つくねを口にいれた。じわりと染み出る旨味を感じながら、我ながら良くできているなと思った。
 BGM代わりにつけていたテレビに目をやると、オペラの特集が組まれていた。今日は日本で初めてオペラが上演されたオペラの日、らしい。
「へー、オペラの日だって。色んな日があるのね」
「ふーん」
「色んな日、ね…」
まもりは豆腐を崩しながら、湯気の向こうで米を口に運ぶ蛭魔をやや眇めた眼で見た。
「なんだ」
「ナンデモ」
どこかで聞いたやり取りを繰り返して、豆腐を口に運んだ。毎年毎年特に何もないこの日を過ごすのもすっかり慣れてしまった。
「あーテメェ来週末予定入れるなよ。出かけるぞ」
「え?どこに?」
「行けば分かる」
「そりゃそうでしょう。もう、教えてくれたっていいのに」
春菊をサッと出汁に潜らせると、緑が鮮やかになって独特な薫りが立ち上る。
「俺にも春菊寄越せ」
「はーい。お鍋に野菜追加する?まだあるよ」
「おー。締めはなんだ」
「雑炊よ」
「うどんにしろ」
「はいはい。冷凍のでいいよね」
「それからな」
蛭魔に春菊を取って渡してから、まもりはつくねを取ろうと菜箸で摘まんだ。
「なーに?」
「結婚するぞ」
「うん、え?なに?え?何言ったの今…!」
動揺は箸の先まで行き渡ったらしく、ぽとり、と力なくつくねが落ちた。
「お、つくね落ちてるな」
蛭魔はそれをすかさずスイ、と取って、流れる様に口に入れてしまった。
「あ、ちょっと!私のつくね…!」
「落ちてたから拾った」
「落ちてたんじゃなくて落としたんです!誰かさんがとんでもないこというから!」
「とんでもなくねぇだろ」
「とんでもないでしょ!鍋の締めの流れで言うことじゃ無いじゃない!」
「テメェ今日誕生日だろ。糞記念日好きなテメェにちょうどいいじゃねぇか。一石二鳥で」
「そ、そうだけど!鍋食べながら言う?!今までの誕生日特に何もなかったから、いつも通りにしちゃったわよ…」
普通そういう事ってTPO考えるものじゃないのかしら。そう心の中で呟いて、先程までの勢いは鳴りを潜めてやや俯き気味に野菜をつついている。
「凹んでんじゃねぇよ」
「凹むわよ…だって思ってたのと違うんだもん」
「どうせ夜景のキレイなレストランでーとか思い出の場所でーとか糞ロマンチスト気取りな事考えてたんだろ」
「考えるわよ!だって憧れるもの!」
「パンダじゃあるまいし、衆人環視の中でンなこと言えるか」
「身も蓋もない…!」
ぶつぶつ文句をいいながら鍋を食べ進めていけば体が熱くなってきた。ただ、理由は鍋のせいだけではない気もする。もやもやしたままチラと視線を前に向けると、無言で茶碗を指差した蛭魔と眼があった。
「ちょっと!おかわり欲しいんならちゃんと言ってよ!」
そう言いつつも右手を差し出す。半ばヤケクソだ。
「…………え?」
茶碗が乗るかと思っていたそこには茶碗とは似ても似つかない感触があって、何かを認識するのに時間がかかった。滑らかな手触りの淡いブルーのベルベットに包まれた小箱が、澄ました様に載っていた。
「…何これ」
「忘れてた」
恐る恐る手を引き戻してそっと蓋を開けてみれば、存在を主張するダイヤモンドに数個の上品なサファイヤがあしらわれた指輪があった。これは、もしかして。
「ちょ…も、もしかしなくても、これ、って」
「Engagement ring」
「流暢に言ってくれなくていいから!」
「不満か」
「やっ、指輪に不満があるとかそういうんじゃなくてっ…」
「なくて?」
「なんでおかわりの流れなのよ!」
「目の前に手があったから」
「はぁ?!」
「お、糞三兄弟」
「~~~~~!!もう!お断りします!」
バチンと蓋を閉めて、勢いに任せて蛭魔の眼前に小箱を突きだした。蛭魔はそれを何の躊躇いもなくヒョイと摘まみ上げる。
「そうか」
「…え?」
あまりに軽くそれを受け取られて、まもりは逆に面食らってしまう。
「左手出せ」
小箱から指輪を抜き取って、後ろに空箱を放った。
「…左手?え、ちょっとそれって」
「いいから出せ」
眉間に皺を寄せてしぶしぶ出された左手の薬指に、それを恭しく嵌めた。
「…いったじゃない、断るって」
「テメェの選択肢は最初からYESかはいだ」
「どっちも意味一緒…!」
「まぁそう言う事だ」
ケケケ、といつもの笑い声が転がる。しかも頗る愉しそうなやつだ。
「どういう事よ!」
「で」
だがその後一音だけ零れた蛭魔の言葉は、一寸前のそれとは明らかに色が違った。
「テメェは、本当に嫌か」
巫山戯た様子も嘲る様子も無く、声音は至極真剣だった。表情にさっきまであった筈の笑みは無く、唇は真っ直ぐ閉じられて鋭い歯も見えない。普段眼光鋭い双眸は、今は鳴りを潜めて真摯な色を湛えている。その変わり様にまもりは思わず眼を見張った。こんな顔は、アメフトをしている時くらいしか見たことはなかった筈だ。
「いや、じゃ、ない、けど」
狼狽えた様に、それでも微かに頬を染めながらぼそぼそと言って、まもりは手元に眸を落とす。
「いくらなんでも、もうちょっと、やり方あるんじゃないかなって」
「身構えるだろ」
「何が」
「俺がいきなりドレスコードあるような高層階の高ぇ店で飯食うって言い出したら」
「あ」
「絶対ぇなんかあるって思うだろ」
「思い、ます」
「俺もテメェも良くも悪くも目立つからな、どっちにしろ落ち着かねぇよ」
「ヒル魔くんは悪い方だけに目立つけど…」
「ナニカイイマシタカ」
「イイエ、ナニモ」
はぁ、とため息を一つ溢して蛭魔は続ける。
「だから家でやる事にしたんだよ。そう言う店に行きてぇんなら別の時に連れて行ってやる」
「…うん」
「なんだ、まだ何かあるのか」
「いや、もしかして来週末行くのって私の実家だったりする?」
「ご明察」
「え?!ちょっとお母さん達に予定聞かなきゃ!」
「問題ねぇ。アポ取ってある」
「うそ…」
「今度は二人で来いって言ってたぞ」
「な、ちょ…会ったの?!両親に?!」
「おー三回ほど」
「さ…?!」
まもりは眼を白黒させて、箸が宙に浮いたまま固まっている。もう、何が何やらわからない。一体この人は何を考えているのだろうか。
「なんでそんなに手際がいいの?!」
「籍入れるんなら早くやっちまいたいんだよ」
「なんで?!」
「俺は来年から暫く日本とアメリカ行ったり来たりだ。新事業起こすからな」
「…はい?!え、チームは?!」
「年明けに退団する」
「うそぉ…」
蛭魔は社会人アメフトチームに所属する傍ら、会社を立ち上げていた。そこで相変わらず選手としてアメフトに情熱を注いでいたのだが、それを辞めるという。
「アメフト、辞めちゃうの?」
「選手はな」
「え?どういうこと?」
「次はチームを作る。日本でチーム作ってアメリカで練習試合組んで強化する。そうなるとコネがいるだろ。だからアメリカで新事業起こしてコネを作る。資金も増強できるしな」
「失敗したらどうするのよ」
「しねぇ。俺を誰だと思ってやがる」
ニヤリといつもの口角を吊り上げた笑みを浮かべて言う。少し前の真摯な雰囲気はもう微塵もない。
「相変わらずの自信ね。でも、もう選手やめちゃうのね。もう少しできそうだったのに」
「能力が頭打ちだったら粘ってたかも知れねぇけどな、頭打ちどころか落ちてきてんだよ。パスの飛距離も落ちてきたしな。あとは、ここを有効に使う」
さも楽しそうに自分の頭をトントンと指で叩いた。状況を見極めて的確に判断して、次に歩を進める。その判断力と行動力は相変わらずすごいなぁとまもりは素直に思う。
「アメリカにどれくらい行くのかわからねぇ。短期にしろ長期にしろ籍入れちまった方がビザとるの楽だろ」
「そうねぇ。で、いつから行くの?」
「来年の春くらいだな」
「春かぁ…」
「で、テメェはどうする」
「どうするって…その言い方だと行かないって選択肢はないんでしょ」
「まあな」
「もう…まあ春だったらタイミングはいいかも。ちょっと遅れるかもしれないけどその辺りに行くわ」
「抵抗しないんだな」
「そもそもヒル魔くんが国内で満足するって思ってなかったもの。遅かれ早かれアメリカ行くだろうなーってね」
まさか鍋越しにプロポーズされるとは思ってませんでしたけど!
そう言いながら、まもりは残りの野菜を鍋に入れていく。その口調は至って穏やかだ。その左手には違和感無く指輪が光っている。
「上出来だ」
蛭魔は満足そうに笑うと、ゆっくり立ち上がってキッチンに向かう。
「あら、何か足りないものあった?」
「ビール。テメェも飲むか」
「じゃあチューハイにするわ。桃のあったでしょ」
「相変わらず糞甘臭ぇな」
「いいでしょ、美味しいんだもん」
くすくす笑いながら嵌めたばかりの指輪を明かりにかざしてみる。それは湯気で曇ることもなく煌めいて、碧眼に映った。間もなく蛭魔がニヤリと笑いながらキッチンから戻ってきた。
「気に入ったか」
「もちろん。プロポーズはとんでもなかったけど、これで帳消しにしてあげる」
「ソリャドウモ」
右手でチューハイを受け取って、それでも尚指輪を微笑みながら眺めるまもりの表情は、それに負けないくらい煌めいて綺麗だった。