血塗れた宴

夢を見る様になったのはいつからだったか。

 睡眠は思いの他深い方で、一度眠ってしまえば特別な事でもない限り起きる事はない。それなのに、最近はレムと半レムを交互に繰り返すと言う常識的なサイクルで眠っている様で、夢なんぞ見る様になってしまった。 それも決まって見るのは悪夢にカテゴライズされる物で、お世辞にも夢見がいいとは言えず、見た後は決まって目が覚めるのだ。
纏わりつく様なべたつく様な汗と共に。
内容などほとんど覚えていないにも関わらず、胸中に砂の様に溜まった不快感がその夢が悪夢である事を証明していた。今日も、そうだった。
 上半身を起こしじっとりと汗を吸い込んで額に張り付く前髪を忌々し気にかき上げて、心なしか息が上がっているのに気付いて盛大に舌打ちをした。吐き出そうにも吐き出せない鬱積した苛々は、物事が計算通りに運ばなかった時のそれに酷似していて、その苛々の原因にふと思い至って、一体どれだけ妨害すれば気が済むんだともう一度舌打ちを零す。夢などほとんど覚えていない癖に、その夢の断片の、しかも嫌な部分ばかりが脳裏に焼き付いて離れず、思った以上に毒されているのかと自嘲的な笑いさえ零れる始末で、これらの悪夢の真意はなんなのかと、漫然と思うばかりだった。
 これ程までに他人に己を害された事など今迄あったか?もしそう問われたら有無も言わさず否、と答えていただろう。今迄の自分ならば。よりにもよって原因が女だなどと、誰が想像した事か。女など、衝動の様に迫り来る肉欲を解消する物に他ならず、他意はなかった。今迄は。
欲の解消以外の関係を求める女も居たが、そんな下らぬ物に時間を割く気も毛頭なく、ことごとく一蹴した。その程度の存在だった。女なんて物は。況してや女が原因で悪夢を見る羽目になろうなどとは予想だにしなかった。
不覚だった。
あの女の存在がそれだけ予想外過ぎたのだ。服装を正せと詰めより、人を脅すな更正しろと宣った女。媚びを売る所か真っ向から挑んで来た女。そんな存在は例外中の例外だった。そもそも今迄対等に話そうなど殊勝な事を考える女が側に寄り付いた事さえなかった。寄る女寄る女全てと言っていい程下心が見え見えで、鋭敏過ぎる勘がそれらを感知する度に、侮蔑を込めた眼でそれらを眺めていたのを思い出した。だから、一方的に寄って来る女は性欲を解消する目的以外で触れようとは思わなかったし、それ以上の関係を持とうなど思わなかった。微塵も。瞬きの間のほんの一瞬でさえ。
それ程までに、馬鹿馬鹿しかった。
阿含の様にそれを利用して良い様に使い続けようなどという時間も労力さえも惜しかった。そんな時間があるのなら作戦を練っていた方が、そんな労力が余っているのなら基礎トレに励んだ方が性に合っていたし、まだ満たされたのだ。

だのに。

なんなのだこの事態は。

 自分の頭脳を持ってしても予想出来なかった、この悪夢。自分の性格も思考も行動も全て把握していると思っていたのに。こんなところで己の醜態を晒さなければならなくなるとは、直視せざるを得なくなるとは、一体何事か。自分の欲は、全てアメフトによって満たしていた筈なのに。支配欲。独占欲。そしてそれらに対する執着心。それらはアメフト以外には決して浮上しない物だと思っていたのに。軽く頭を振ってずり落ちたシーツを乱暴にはぎ取ってベッドから下りた。喉が酷く渇く。ヒリヒリと痛みを帯びて、まるで焼けてしまう程に。 先程の夢の断片が頭の片隅でループする。

血塗れた手。
揺れる栗毛。
抱いた体。

 感触さえ伝わってくる様なリアル過ぎる夢は現実との境を曖昧に濁して、今体感している筈の時間や空間全てを不確定な物へと変えていく。冷蔵庫からミネラルウォーターを一本出して、煽った。口内に収まり切らなかった水が口の端から流れ出す。疲れを癒す筈の睡眠の所為で酷く疲弊しきった体には、その冷たい液体が心地良く感じられた。中身がなくなるまでその行為を続けた後、空になったペットボトルを必要以上の強い力で握り潰してゴミ箱に放り投げる。恐怖や不安など表立って感じた事などなかった筈なのに、このままでは睡眠に対してそれらを感じてしまいそうだった。

あの女を殺す夢なんぞ冗談じゃねぇ!

 何度となく放った舌打ちも、力なく、虚しく部屋に溶け込んだ。今の俺にとっての睡眠は、闇に墜ちるのと変わらなかった。本当に人が言うところの悪魔だったのならどれだけ楽だったか。絶対的な力を持ってあの碧い眼を我が物にしていたのか。こんなくだらぬ感情などに左右される事などなかったのか。
埒のあかない思考を無理矢理遮断して、顔でも洗うかと一歩踏み出したところで、また、浮上する断片。

手にしたナイフ。
穏やかな笑顔。
緩む腕。

あぁ、俺は何かを、見誤っていたのかもしれない。

ずり落ちる体。
見上げた顔。
あの女の貌。
手には、血塗れたナイフ。

殺されたのは、俺だった。

猛烈な眩暈がして洗面台に縋った。悪夢も血も感情も、全て洗い流してしまおうと、頭から水を、浴び続けた。