真実の、裏の裏。

さぁ善良な糞市民のみなさん、問題です。
仕事から帰ってきたら糞嫁が自分のワイシャツ片手に泣きっ面仁王立ちで玄関にいたらどうしますか。


カコーンと、なんとも軽快な音をたてて洗濯糊の蓋が落ちた。カラカラ転がる音がする。でも拾う気は起きない。目は完全に手元のワイシャツの襟元に釘付けだし、鼻は嗅ぎ覚えのない香りを嗅ぎ取っている。
ちょっと何コレなにこれ私こんなの付けたっけそれよりもこんな色の口紅持ってなかったわよねしかもこの匂いってちょっとエロ…
そこまで一気に自分で考えたくせに、その考えに自ずから視界がぐにゃりと歪んだ気さえした。
襟元に、真っ赤なキスマーク。ぷんぷん匂う、知らない香水。
嘘、ウソでしょ、うそだって。

 確かにあんな見た目だけど見た目通りあんな人だけどでもこんな下手な隠し方する人じゃないしましてや浮気なんかする人でもないし、でも目の前のコレは何どう説明するのかしらもしかして私のことなんかとっくに飽きちゃってて、他の女の人にお世話になっててそれで私が邪魔になったからこれ見よがしにこんなもの…。いやいやそんなのきっとサスペンスの見過ぎようんそう絶対そうでもどうしよう自信がない自分に自信がないあーどうしようどうしたら、あーーー!

ビシィッとYシャツの端と端を引っ張って、眼前に掲げる。そして尚も続く独り言。
帰って来たら絶対聞かなきゃでもやっぱり不安だし自信がないのよ信じてるんだけど信じられないのよあぁもうどうしたらいいのまもり!しっかりしなきゃまもり!
状況がまるで飲み込めていない頭のまま状況証拠とも言えるワイシャツを手元のビニール袋に叩き込んだ。そのまま袋の口をキュッと縛って側の籠に投げ込む。
これで匂いも逃げないし間違えてシャツも洗ったりしないわよ。それに、妖一も逃がすつもりなんてないんですからね。いざとなったらシュークリーム投げつけてやるんだから!
もったいないけど!


* * *


 寒い。まるで雪が降ってもおかしくない程の寒空の下、家のドアの前で両の手を軽く擦る。いくら手袋をしていると言えどこうも外気が冷えてしまえばそれの役割などたかが知れている。図らずも冷えきってしまった指先では家の鍵を出すことさえままならず、蛭魔は小さく舌打ちをして手袋を歯で挟んで器用に脱いだ。そのまま荒々しくポケットに手をねじ込んで鍵を引きずり出し、その勢いでドアを乱暴にこじ開けた。ガチャンと錠が外れる音がする。ドアを空ければ外とはまるで違う暖気が覆っていて、お馴染みの笑顔がそこにいる、筈、で。
「…あ?」
余りに想像とかけ離れたモノがその場にいたせいで、くわえたままだった手袋が発した声と共に力無く落ちた。
さぁ善良な糞市民のみなさん、問題です。
仕事から帰ってきたら糞嫁が自分のワイシャツ片手に泣きっ面仁王立ちで玄関にいたらどうしますか。

A.俺なら逃げる。

まもりのそれに不覚にも気圧されてコンビニにでも行こうかとドアを閉めようとすれば、ガッとドアを掴まれて呆気なく失敗する。と言うよりも妻のらしくない行動に動きが鈍ったと言う方が正しい。
「…逃げるつもりなんでしょ」
「…逃げたくもなるだろ、んな辛気くせぇ面で仁王立ちされてりゃあ」
「しらばっくれないでよ!」
「…あ?」
今度は思い当たる節がまるでないと言った顔をした蛭魔に、まもりはもう涙腺が緩んだままの鼻にかかった声で叫んだ。どこから出したのか、例のビニール袋の口をほどきながら。
「これ!説明して下さい!」
「あ?ビニールぶく…むぐっ」
突然袋を顔に押し付けられて、内容物を半ば強制的に吸い込んでしまった。甘ったるい香水が鼻を蹂躙する。それから約数秒、漸く上げたその顔は、何とも言えず歪んでいた。
「…臭ぇ」
「嗅ぎ覚えあるでしょ!この香水!」
「嗅ぎ覚えがあるも何もねぇだろ。この間テメェが買ってたヤツだろうが」
「…え?」
 そういえば、つい最近瓶に惹かれて買った香水の事を思い出した。瓶にばかり目がいって、思えば香りなどよく覚えていなかった気がする。そんな呆けたままのまもりを尻目に蛭魔は、さっさと靴を脱ぎ捨ててずかずかと上がり込んでしまった。寒気を無駄に室内へと送り込んでいたドアが、音もなく閉まる。ドアが閉まりきったのを見届けてからやっと体が動くことを思い出した様だった。まるで金縛りだ。
「…あ!ちょ、ちょっと!じゃあこの口紅は!?私こんなところにキスなんかしないしこんな色持ってないし!」
もつれた足を無理矢理動かしてキスマークをぐいっと眼前に持っていく。だがまもりのそんな必死な動作でさえ、鬱陶しそうな一瞥をくれていとも容易く一蹴してしまった。
「サンプル」
「はい?」
「テメェが意地汚く貰ってきた口紅のサンプル、そんな色してなかったか?」
「え…?私口紅のサンプルなんか……あ!」
「おーおー思い出したか?悪酔いして化粧し出すわ押し倒すわ挙げ句の果てに握…」
「きゃー!やだー!言わないでー!」
「おや?お顔が真っ赤デスガ何か恥ずかしい事でもアリマシタカ?」
「馬鹿!ヤダ!意地悪!ごめん!」
「支離滅裂じゃねぇか」
首から始まり耳に到るまで全てを真っ赤に染めて、リビングへと逃げて行ったまもりの背中を意地の悪そうな笑みで見送ることにした。ケケケと背後から笑い声がする。

だが何故か、その笑みが若干苦みを帯びていたことに、まもりはまるで気が付かなかった。




【蛭魔に好きな人ができたと思い込み、別れようとするまもりを飄々と丸め込む蛭魔】 とも様に捧げます