身近な地獄

 換気扇。扇風機。空気清浄機に脱臭剤。エアコンはドライ。俺の右手には苦い香りを放つブラックコーヒー、左手には発射準備の整ったファ○リーズ。できることなら鼻に栓でもしようかと思ったが、あまりに滑稽だからそれはやめた。話題を提供してどうする、俺。

 ところで何故に俺が因りによってそんな泣く子も笑う珍妙な格好で、眉間に皺を寄せてソファーに身を沈めているかといえば、理由は至って単純で不愉快なモンだった。
今目の前でシュークリームと言う名の毒物を、さもうまそうに貪っている糞女をどうしたらいい。日曜日にたまたまアメフトの練習が休みで家に居るハメになった俺の不幸を憂いてくれ、糞神様。そんな普段信じてなんざねぇ様なモンに、ンなくだらねぇ期待をしたくなるほど目の前の光景は俺にとってはさながら地獄絵図だった。
糞女が食い散らかした雁屋の空き箱(10は軽く超えている)コンビニのダブルホイップシュー(既製品の割りに美味だと糞女がほざいていた)の残骸(扇風機に吹き飛ばされてテーブルの下まで落ちていた)等など凄惨極まりない光景が朝からずっとこの部屋に堂々と居座っていた。
まさに死屍累々。
 当の本人はと言えば、常人ならばとうの昔に倒れているだろうこの量のシュークリームをぺろりと平らげて、まさに聖女の様な顔で残り香を堪能していた。一体どういう嗅覚してやがる。というのもこの女、元々周囲が認めるシュークリーム狂(恐らく自覚は皆無)で、高校の時分から相当量のシュークリームを平らげていたがコレ程ではなかった。風呂に入っても匂いが取れない程じゃあなかった。さすがに。

 じゃあ今のこの事態はなんなのかというと、アレなのだ。妊娠7~8ヶ月の妊婦が陥る、アレ。一般では食べつわりとかいうらしいそれのせいで、普段のシュークリーム狂いに拍車がかかっている。いや、拍車どころの騒ぎじゃねぇぞこれは。 時々発作の様に起こるこの衝動は、腹の子供が育つために必要だとか何とかで、そんな話を聞かされればさすがの俺も「食うな」とは言えず、だからといって身重の妊婦を家に放置して外を放浪するなどと言う事も今の俺にはできなくなっていた。昔ならともかく。
鼻のすぐ下にコーヒーの並々入ったマグカップを持ってきて深く深く吸い込む。そうでもしねぇと生きられたもんじゃねぇ。糞!
 文明の利器を駆使しても全く持って変わりやしねぇこの部屋の 重く沈殿した甘臭い空気に耐えられなくなって、側にあったクッションに左手の消臭兵器を一発放って一瞬広がった正常な空気を必死で吸い込んだ。あぁなんでこんな事に必死になってんだ俺は眉間に刻まれた皺がもうクレバスにでもなるんじゃねぇかってくれぇ深くなったところで糞女が言葉を投げた。
「ろーひたの、ひょんな怖い顔ひて(どうしたの、そんな怖い顔して)」
「せめてクリーム飲み込んでから喋りやがれファッキン馬鹿」
言葉にすらなってやしねぇ。その問答約一秒。思わず今日最大の溜息が出た。会話すら危ういくれぇこいつはシュークリームに侵されてやがる。
…俺はシュークリームと結婚した訳じゃあなかったよな?

これで生まれてきた子供がシュークリームだったらどうしてくれる、糞奥様。