鉄板に自転車

ふぅ。

大きく大きく息を吐いて、こんなに容赦ない太陽の下でも負ける事なく、生い茂る草に覆われた土手にぺたんと腰を下ろして、きらきら光を反射する川を眺めた。それで、もう一度息を吐く。
ふぅ。


 部活の買い出しの帰りだった。とは言ってもいつもの様な大量の買い出しという訳ではなくて、足りなくなった包帯とか熱中症対策の水分とかその程度のものだったから、いつもは二人がかりで徒歩だけど今日は自転車で一人で買い出し。夏の日差しはまるで容赦なくて、アスファルトを鉄板の様に加熱してその上を歩く生き物を全て焼肉にしようとする。まぁ怖い。
あ、焼肉食べたくなってきた。
 チリチリ肌を焼かれる感触からそんな事を連想して、食欲には勝てないものなのかしらとか馬鹿げた事を考えながら自転車を走らせる。漕いでも漕いでも吹き付ける風は生温いだけで、体温を下げる足しにもなりやしない。籠の中につまれたスポーツ飲料水もじっとり汗をかいていて、帰る頃には温くなっているだろう事は容易に想像が付く。今自分の唯一の水分とも言える滴る汗は不快にこそなりはすれ涼を得るには到底役不足で、そんな暑さなど気にする事なく呑気に喚き続ける蝉が羨ましくさえ思えてきた。黒美嵯川の土手に差し掛かると、若干高台になっていて水が近いせいか涼しい風が草の匂いを乗せて顔の横を通り抜けた。
はぁーこれくらいで構わないから普段も風吹いてくれないかしら。
一人ごちてペダルから足を外して全身で風を受ける。ジャージの裾からTシャツの袖から空気が入ってきて随分涼しかった。
少し休んで行こうかな。思いの他買い出しも早く済んだし。どうせ戻っても入ってもまるで意味がない木陰があるだけだもの。
ペダルから足を外したままの自転車はゆっくり減速してそのまま止まる事を選ぶ。土手に自転車を止めて川と土手の間くらいに座り込んだ。そこで大きな溜め息。

ふぅ。

もう毎日暑くて暑くて嫌になるなぁ。やっぱり学校にもこれくらい風が吹いててくれればいいのに。そんな呟きも余所に一向に勢いは衰えない太陽。

ふぅ。

もう一度大きく溜め息をついて、草むらに大の字で倒れ込んだ。背中に敷き込んだ草は意外にひやりとしていて存外心地よくて、体を撫でる様に吹く風は更に気持ち良かった様で。
気が付いたら私は、そのまま眠ってしまった様だった。


* * *


片頬が突然冷たくなった気がして目が醒めた。薄く薄く目を開けば嫌に眩しい金色が太陽光を乱反射させて目を攻撃してくる。目が痛い。
「…ん…ヒル魔、君…?ん…おはよ…」
「何がおはようだ糞マネ!寝惚けてんな!」
ぼやけたピントが合って、漸くヒル魔君だって認識して声をかけたら何故だか怒られた。そういえば、ヒル魔君なんか息上がってない?
「…え?あれ?私何して…ほっぺた冷たいし……?スポーツ飲料…?」
「いい加減目醒ましやがれ糞馬鹿女!」
盛大な溜め息をつかれた上に怒鳴られた。ちょっともうそんなに怒らなくったっていいじゃない!そう反論しようとして、気が付いた。
ここが土手の草むらで
外はもう夕方と言ってもいい時間で
私は買い出しの帰りだったという事。
「あーーーー!」
 言うが早いかガバリと起き上がって自転車に駆け寄った。つもりだったのに。無意識に長時間強い日差しに炙られ続けた体はいい加減疲労仕切っていて、体を支える事さえ困難になっていた。自分が発した声さえ頭に響く。ぐらりと揺れる視界。霞む頭。そういえば水分を買うのに必死で自分は何も飲んでいなかったっけ。踏み止どまる力さえ残っていなくて後は倒れるだけだった体は、細いながら力強い腕に支えられて九死に一生を得た。って言うのは大袈裟ね。力の入らない体の上で、また、盛大な溜め息。
「…テメェの限度くらい知っとけ。糞馬鹿女」
「もう…そんな言い方ないじゃない…」
人に支えてもらいながらも反論だけはしておく。だけど当然言葉に勢いなんかなくて。抱えられたままその場に座らされて、目の前にスポーツ飲料が並々入ったペットボトルを突き出された。キャップは外れている。隣りにはヒル魔君。
「飲め」
「うー…」
 なんで命令形何だろうとかそんな反論は出て来なくて、ゆっくり腕を持ち上げてペットボトルを握った。力は当然入らないけれど、底にはボトルを支える長くて骨張ったヒル魔君の指。…意外に世話焼きなのよね、この人。そっと唇から流し込めば干からびきった体に水がじわじわ染み込んで、霞んだ頭が徐々に晴れて行くのがわかる。
「部活中にサボるたぁいい度胸してやがる」
「サボりじゃ…ないです…」
精一杯吐いたいつもの抵抗も全く覇気がなくて蝉の叫びに掻き消されそうだった。ヒル魔君はそんな私の様子を見て拍子抜けした様な顔をしながら呆れがふんだんに詰まった溜め息を零す。
「…大方ここが涼しかったからとかそんな理由で休むつもりだったんだろ。それで寝ちまったら世話ねぇな」
「う…ごめん…」
買い出し中に居眠りした挙句迎えに来てもらうなんて恥ずかしさの余りに居た堪れなくなって顔を伏せた。しばらくの沈黙の後、もう一度頭上から溜め息が聞こえてガシリと頭を掴まれた。ちょっと痛い。
「無理し過ぎなんだテメェは」
こう言われるまで案外自分の事はほったらかしで、マネージャー業に勤しんでいたって事に気付かなかった。睡眠時間とか水分補給とか。それだけ私が自覚皆無だったにも関わらず知ってたんだ。この人は。だから今だってこうして甘いスポーツ飲料片手にここにいるのだ。自分は水しか飲まないくせに。
「だって…みんな頑張ってるんだから私も頑張らなきゃって思うじゃない…」
「それで無茶して倒れて他人に時間割かせてどうすんだ。本末転倒もいいところだ」
「ごめん…」
地面に頭がくっつきそうなくらいうなだれてペットボトルを握り締めた。潰れる程じゃないけれど。そうしたら髪の毛をくしゃくしゃ掻き混ぜられてペシリと一はたき。これは痛かった。
「痛い!」
「痛いじゃねぇよ。とっとと帰るぞ糞マネ。今度は糞チビ共が干からびる」
そう言ってさっさと立ち上がってすたすた歩いて行ってしまった。少し頬を膨らませたままヒル魔君が歩いて行った方を振り返れば、ヒル魔君が至って普通に私の自転車に跨がっていた。あれ?歩いて帰るんじゃないの?
「間抜け面で何してんだ。ンなふらついてやがんのに歩いて帰れるワケねぇだろうが。おら、さっさと後ろ乗りやがれ」
…何考えてるのかバレてるし。
もう一口スポーツ飲料を飲んでから、ゆっくり腰を上げた。機敏な動きなんて程遠いんだろうな。
「…ヒル魔君も自転車乗るんだね」
「テメェ喧嘩売ってんのか」
「ううん、素朴な疑問」
「どこが素朴だ。早く乗りやがれ糞マネ」
 睨みながら後ろの荷台を指差す。そんな他愛のない問答を繰り返して自転車の荷台に横座りした。やっぱり疲れは取れていなかった様で、座った瞬間ふらりとヒル魔君の背中に凭れかかる。そっと腰に手を回したのを合図の様にして自転車が動きだす。細身とはいえやっぱり背中は広いんだなぁとか筋肉はしっかりついてるんだなぁとかそんな事を考えて、ひたすらぼーっとしていた。自転車代わりに漕いでくれるのに土手登るのは手伝ってくれないんだなーとか、気の利いた台詞くらい吐けばいいのにとか思うけどそんな事はもう今更だ。だって部活自主練にしてまで迎えに来てくれたんだろうな、きっと。
「…ありがと」
ぽつりと、小さいけれど聞こえるくらいの声で呟いて眼を伏せた。当然返事は返って来ないけどそんな事にはもう慣れた。外気はさっきよりも幾分か涼しくなっていて、一人で漕いでいた時よりもずっと気持ち良かった。日の光も随分穏やかになっている。さっきはチリチリ痛かったのに。あ、そうだ。
「ねぇ、ヒル魔君」
「あ?」
「焼肉食べたい」
「…そんなに干からびてぇのか」
「そうじゃなくて!」
「脱水しかけてても食い気だけは張ってんのな。もう食うな。自転車が沈む」
「沈みません!」
「テメェには借しがあんだぞ、要求が通ると思ってんのか糞マネ」
それはそうなんだけど。
「むー…」
「ウチ来るか」
「え?」
「家で焼肉で文句あるか?」
「ないですないです」
あら意外。すんなり焼肉食べさせてくれるのね。
「今日の夕飯は肉とお前。決定事項だ。変更は認めねぇ」
「うん、わかっ…た…?」
今献立が、一つ多かった様な気が。途中でフリーズした私を余所に、実に楽しそうな笑いが聞こえて顔が鉄板より熱くなった様な気がした。