静かな雨の日には

 サアサアとテレビの砂嵐を少しだけクリアにしたような雨音が部屋を覆っている。窓の外は薄い膜を張った様に白んで、細かい雨粒が止めどなく落ちてくる。今日は月に二回ある大学のアメフト部の完全休息日だが、こんな纏わりつく様な雨の日に出かけようという気は起きずに日課のランニングを早々に切り上げて、蛭魔は自室で筋トレに励んでいた。ぽたり、ぽたり、と腕立て伏せの動きに合わせて汗が滴る。秋口の雨の日の空気は静かにひんやりと漂っていたが、今の蛭魔には何の意味もなかった。黙々と続けていると冷えた空気を携帯が揺らした。チラリと一瞥すると、間もなく振動が止まる。そのまま気にすることなくノルマをこなすと、タオルを手に取って立ち上がりながら携帯を開いた。中身は思った通りメールの受信を知らせていて、 相手も思った通り馴染みのある女の名前だった。そこには簡潔に一言。
『今から行くね』
珍しい、と思った。携帯の角の時計を見れば10時を回ったところだった。普段の完全休息日ならば前日から泊まっていくか、そうでなければ家に来るときは大体昼過ぎで、メールを寄越すにしても件名から内容まで馬鹿丁寧に書かれた定型文の様なものが常だった。何かあったのか?そんな事を漠然と考えながら汗を拭ってキッチンへと足を向ける。薬缶に火をかけて、冷蔵庫から取り出した水を煽った。冷えた水が喉を通って行くにつれ、火照った体が冷やされていく。治まる汗に息を吐きながらNFLのDVDをセットして、デリバリーのチラシとアメフト雑誌をテーブルに放り投げた。
 まもりの家は蛭魔の家から5分程歩いたところにある。そんな近くに住むのなら同棲するか、とは言ったものの、まだ学生だしとか甘えちゃいそうだからとか色々理由を並べて顔を赤くしながら断られた。結局ほぼ毎回夕飯は共に家で食べているし週末は必ず泊まっていくのだから、そんな金と時間の無駄遣いなどさっさと止めてしまえばいいのに、と常々思っていたりする。緩く暖房をかけて、間もなく来るだろうまもりの到着を待つ。汗で濡れたシャツを着替えながら、あの簡潔すぎるメールの理由を考えてみる。糞野郎に告白されたとか、ホームシックになったとか、自分が愛されてるか不安なの、とか。こんなありきたりな事じゃなくて、もっと突拍子もない事かもしれない。軽く斜め上を行く天然。それが姉崎まもりという女だ。
 薬缶がお湯が沸いたとけたたましく喚いた。思考とも言えない思考を片隅に追いやって、火を止めたタイミングでチャイムが鳴る。合鍵は渡しているのだが、それでもチャイムを鳴らすときは大抵両手いっぱいに買い物してきた時だった。鍵を開けてやれば、いつになく大量の買い物をしてきたまもりがいた。
「…夜逃げでもしてきたか」
「違います!タイムセールしてたからつい買い過ぎちゃったの!」
それなりの重量があるのだろう、外気は低い筈なのにその額には薄っすら汗が滲んでいる。蛭魔は袋を受け取って中に入るように促すと、小さく「お邪魔します」と呟いて手を洗いに向かった。どこまでいっても優等生なんだなと小さく溜め息を吐いて、ドアに鍵をかけて冷蔵庫の前に荷物を積んだ。コーヒーのドリップを二人分準備しながらまもりの様子を伺うが、これといって変わった様子はなかった。やっぱり突拍子もない事を言い出すんだろうか。小さく苦笑して湯を注いでいると、洗面所から出てきたまもりが冷蔵庫に食材を押し込みだした。鶏肉の塊やらキャベツ一玉やらかなりの質量の食料が冷蔵庫に吸い込まれていく。仮に二人で食べるとしても随分量が多い。
「…ここは相撲部屋じゃねぇぞ」
「わかってます!作り置きするの!ほっとくとすぐ食生活が乱れるんだから!」
ガサガサと音をたて、荒い動きながらも手早く的確に片付けていく姿にある種の感嘆を覚えてしまった。感情表現は不器用だが、こういったことは器用だ。実に。
「テメェは糞甘臭ぇカフェオレでいいんだろ」
「あ、うん。ありがとう。甘臭いは余計だけど!」
軽口を叩きながらカフェオレとブラックコーヒーが入ったマグカップを二つ、リビングへと持っていく。コトンと音を出して置かれたそれは湯気を立てているが、先程より暖められた部屋の中ではそれ程湯気は目立たない。蛭魔はドカリとソファーに腰を下ろしてテレビとDVDプレーヤーを点けた。間もなく録画したNFLの試合が画面を埋める。
「ヒル魔くん、お昼何にする?麺でもご飯でもできるけど」
「あー?昼飯にはまだ早ぇだろ。いいからこっち来い。毒物が冷める」
「もう!カフェオレは飲み物です!」
なんでいつも一言余計なのとか、優しさが中途半端なのよとかぶつくさ言いながら、すとんとヒル魔の隣に腰を下ろしてマグカップを手に取る。両手でそれをくるんで一口つければ、ミルクと砂糖とコーヒーがいい塩梅で体を満たした。好みも把握されてるのかしら、とポツリと思う。ふぅ、と一つ息を吐けば幾らか気持ちが落ち着いて、隣でアメフトを観ている蛭魔の左肩にこてん、と頭を載せた。サラリと栗毛が流れる。それをぼんやり見送りながら眸を滑らせていくと、上の方で蛭魔と眼があった。まもりは思わずパチリと瞬きをする。その碧眼に一瞬くらい何かを感じ取って、蛭魔はコーヒーを片手にボソリと言葉を落とした。
「何かあったのかよ」
「え?」
「メールが余りに適当だったモノデ」
「もう!適当じゃないです!簡潔に送ったんです!」
「で?何かあったんだろ」
それは疑問ではなく確信だった。人の機微を敏感に察知するこの人に対しては、あのメールは解り易過ぎたのかもしれない。
「…あったって程ではないんだけど」
視線だけで先を促される。
「こういう静かな雨の日ってね、世界に自分だけ取り残されちゃったみたいに感じて不安になることがあるの」
「ほー」
「今日は特に寒かったでしょ。窓の外見ても霞がかったみたいで現実味がなくて、余計不安になっちゃったのよ」
 まもりは今日ベッドから身を起こしたとき、早朝からずっと降り続いていた雨に因って、確かにいた筈の自室が別の空間に取って変わったような錯覚を感じた。耳に張り付いたような雨音と鼻を抜ける冷ややかな空気。体を覆って絡み付くような湿気と冷気に寝起きの体温を奪われて、まるで自分だけ世界から切り取られてしまった様なじわじわとした孤独を感じたのだった。昨日はレポートやら課題に追われていて、蛭魔の家には行かなかった。だから、尚更心許ないのかもしれない。
「で、あのメールか」
「そう。気持ちが焦ってたのかしら。早く送ろうと思ったら短くなっちゃった」
半分程になったカフェオレをテーブルに置いて、先程よりも半身を蛭魔にくっつけていると、触れている体温に漠然とした不安が薄れていく様な気がした。猫の様に擦り寄るまもりの指通りのいい髪を、蛭魔は左手で梳りながら窓の外にチラリと視線をやる。確かに普段の景色に比べれば異質で、不安になるのも解らなくはない。だからといって蛭魔は不安になることは無いのだが。台風ならいざ知らず、この程度の天気に何をされるという事もないのだ。
「ふーん」
確かに突拍子もなかったがそこまでぶっ飛んでは無かったな、と蛭魔は評価を改めた。まもりに眼をやると、呼吸に合わせて栗茶が揺れている。その度に頬がくすぐったかった。その安堵感に、雨よりもまもりが隣にいないことの方が現実味がなくて余計な不安を呼ぶんだろうなと思い至って、あぁ糞甘臭ぇのが移ったなと内心で苦笑した。コーヒーを飲み干してマグカップをテーブルに置く。左手で尚も髪と戯れていると、ずる、と栗毛が頭ごとゆっくり落ちてきた。肩口から胸板を滑って、そのまま蛭魔の膝の上に落ちる。左手は前触れなく戯れが終わって宙に浮いたままだ。これもまた珍しい、と思った。
「…かたい」
「お陰様で無駄な脂肪がないモノデ」
ケケケ、と笑いながら浮いていた左手をまもりの腰の辺りに落としてポンポンと宥めるように叩いた。その動きにまもりは安堵からか深いため息を吐く。かたいが脅かすことのないそれに安心感を覚えて軽く眸を閉じれば、歓声とスパイクが土を蹴る音が耳に飛び込んできて気が付けば雨の音など忘れていた。あんなに不安を連れてきたのに、存外呆気ないんだなと思った。
「テメェ、変な意地張ってねぇで引っ越してこいよ。部屋なら余ってるぞ」
「…うん、そうしようかなぁ」
身動ぎしながら答えたまもりに、蛭魔は眼を見張る。
「随分素直だな」
「考えたらほとんど一緒にご飯食べてるし、一緒に住んだら一人で不安に駆られることもなくなるじゃない。最初はプライベートくらい欲しいって思ったけど、そもそもヒル魔くんと付き合ってる時点でそんなものなかったわ」
考えるまでもなかった。そう言ってクスクス笑った。それに合わせて揺れる栗色を蛭魔は空いた右手で耳にかけてやる。小さい耳と、淡く色づいた白い頬が見えた。
「ならとっとと越してこい。なんなら俺がやってやろうか」
「自分でします!黒い手帳出すつもりでしょ!」
もう!とかなんとか言いながら蛭魔の脛を叩いているが、痛くも痒くもない。クッと喉の奥で笑って、テーブルに腕を伸ばした。
「昼飯は出前取るぞ。腹減ってるから怒ってるんだろ。大食らいめ」
「ちょっと!食い意地張ってるみたいに言わないで!食欲は人並みです!……何の出前頼むの?」
「張ってんじゃねぇかよ。ピザでも寿司でもなんでもいいぞ」
「じゃあピザかなぁ。四種類載ってるやつ。あ、サイドメニュー付けたいな。チキンとティラミス」
渡してやったピザのチラシを真剣な顔で眺めながら悩んでいる。
「…前言撤回しろよ。どこが人並みだ」
「一人で全部食べる訳じゃないもん。ヒル魔くんだって食べるでしょ」
心外だ、と顔に出して蛭魔を見上げた。頬を膨らませて口を尖らせてはいるが、碧い双眸からくらい色は消えていた。
「肉ばっかり載ってるヤツあっただろ。それ入れろよ」
「えー?じゃあサラダも付けようかなぁ。気休めでもいいから野菜も食べたいわ」
「糞優等生が。好きなモン頼んでいいからテメェが電話しろよ」
「はーい」
軽い返事をして身を起こそうとするまもりの頭を支えてやるフリをして、蛭魔はその栗色に唇を落とした。結局アメフトは頭に入ってこなかったが、たまにはこんな日があってもいいか、と柄にもなく思った。