Instinct Syndrome

 本能と言う物は実に衝動的だと思う。特に一度味を覚えている物に対しては尚更だ。
基本的に人間は、五感を使って受け取った刺激物を神経を通して脳に送り、そこで一通りの処理行程を経て外に出る。筈なのだが。どうやら本能に関しては別らしかった。一切の行程を無視してまるで脊椎反射の様に外に飛び出す。まさしく俺は今、それを体現しているのだ。


溯る事数刻。
常と何等変わらぬロッカールームの一角でワイシャツに袖を通していた。ここ数日日頃の不摂生によって確実に疲労が堆積していただろう肉体は、シャツに袖を通すだけの至極簡単な作業でさえ困難だった。だがそんなもの周囲に晒す気は更々無い。大体気付いたとしてもあの二人くらいのものだろう。連中なら一言二言言ってみるだけで直ぐに諦めるのは目にみえている。言うだけ無駄っつうのは嫌と言う程わかってんだろ。
 ところがだ、ここで例外的に一人の女が加わる。嫌に頭のきれる、嫌に聡い女だ。
それは男と女という関係になってから殊更に目立つようになった。仕事を溜め込んでようが怪我を隠していようが今の様に躰が限界に達してようが直ぐに気が付く。隣りで改心させようと諭しにかかる。それが無駄だとわかっていてもだ。だがしかし、クリスマスボウルがじわじわと近付くに連れ女の説得が減って来ていた。最近に至ってはほぼゼロと言ってもいい。それだけ時間が減っているのを女は当に気付いている。恐らくそれだけ俺が焦っているという事も。今だって体がイカれたっておかしくない状態で一人トレーニングをしていたのだ。他のメンバーはとっくに帰っている。ただの一人を除いては。
生気も乏しい沈黙を打ち破る様に、突然ガラリとロッカールームの戸が細身の人間一人分だけ隙間を作った。そこからするりと入って来た、女。手には丁寧に畳まれたタオルが一枚。洗練された動作で俺の側まで歩み寄る。
「…はい、タオル、ここに置いとくね」
「…」
 声を出す、気力も無い。軽く一瞥をくれてやっただけだ。それだけで十分だったのか女は何も言わずに腰を曲げてタオルをベンチに置いた。その時俺の顔の直ぐ脇を、色素の薄い女の髪が舞った。項が眼に入る。この女特有の甘ったるさ漂う匂いが、何故か今に限って敏感に嗅覚を刺激した。
瞬間、思い出した。
 人間としてではなく動物的本能として、生命に触れる程の疲労状態に陥った生物は後続を残そうと生殖本能が鋭敏さを増すらしい。今の俺の状態は、全く持ってそれと同様のものだった。まるで理性を欠いている。普段の俺なら到底考えられない程の浅はかさだ。だがそれも、この女に対してだけだ。これは断言してもいい。衝動的とはまさに字の通りで、何者かに衝き動かされた様に眼前で屈んだ女の顔を無理矢理上げさせてその唇を奪った。
 余りに突然の事に瞠目した女の事など気にする余裕は微塵もなかった。異常な程刺激された俺の本能は、常時の行動パターンなどまるでなかったかの様にそれだけに没入させる。顎を獲物を捕らえた鷲の鉤爪の様に指で押さえて只管貪った。食らい付く様な接吻のせいか、女からくぐもった声がする。
「ふ…っ」
 固く眼を閉じて必死で抵抗を試みている様ではあった。そんなもの、蟻地獄に嵌まって無意味に暴れる蟻の様なものだ。女が苦し紛れにぎゅっと俺のシャツを掴んだのを好機とばかりに、女の脇に手を差し込んでブレザーを剥ごうと目論む。それを止める気力は、最早潰えている。
「は…っ、急に…どう、したのよ…!」
息継ぎの合間に女の声が耳に入った。
「…黙って食われてろ」
思えばシャツのボタンさえ閉める余裕がなかった。手は勝手に女を覆う薄い布切れの下へ潜り込んでいる。
飢えて、いる。
「なに、それ…!ちょ…ドア、鍵空いて…っ!」
 手触りのいい肌に指が触れた途端、細い体がびくりと跳ねた。曲線を辿る様に指を這わせて誰の物ともつかない唾液で艶だった唇にもう一度齧り付いた。この女は常々下らねぇ事を気にすると思う。こっちにしてみれば見られた方が都合がいい。特に糞猿や糞長男に見られたならしめた物だ。害虫は存在自体が害なのだ。いないに越した事は無い。もう女に何か喋らせる気も毛頭なく、遂には女も諦めたのか後ろから俺の肩口のシャツにもしがみついて己の本能に踊らされるのに耐えているようだった。あくまで真面目な本質を変える気はないらしい。ならばそれを根底から突き崩してやろう。無遠慮に顎に添えた指をそのまま女の口許に近付けて、女の唇を辿った。酷く男をくすぐるその感触に更なる欲求を覚えて指をしゃぶらせる。ここまでくれば抵抗はほんの数瞬だけだ。もう打算だとか計算だとかいった酷く人間染みた思考は介在しておらず、動物的本能の赴くままに女にしがみついている。
不本意とは言えど、所詮本能には抗えないのか。
項に舌を押し付けて啜る。烙印をつけるとかそんな儀式めいた物ではない、酷く動物的な物だ。荒ぐ吐息の音が耳を掠める。それに呼応する様に脊椎が戦慄いた。

もう、どうなるかわからない。
余りに強過ぎる欲求に、女を壊しかねない。脳が警鐘を鳴らすがそんなものとっくに打ち崩れている。女の臀部に到達した指がその得も言われぬ感触に酔い知れれば、生理的に唾液が溢れて自身が獣にでもなった様な錯覚に陥った。すぐ耳元で悶える声も、自ら紡いだ水音も、全て本能に直結する。もう、何もいらない。

この行為を邪魔しようと言うのならやってみればいい。その時は、容赦無く、喉元を。


イラスト:against the wind ヤメピ様