そして、絡め取る者は

「ふぅ…ん…っ」
耳元で、ぐちゅぐちゅ音がする。
「は…ヒル、魔…く…」
とっさに呼んだ名前は、多分別物。
「…」
特に答える素振りも見せないそれは、一心不乱に私を貪っている。その行為に私はされるがままで、そのうち躰も、むしろ頭の中だってすっかり自由を失って、自ずからこの食事に尽くすことになるのだ。
いつもと同じ。でもいつもと違う。
 いつもなら網の様に緻密に頑強に練られている筈の作戦も、今日は糸よりも細く脆い。もう、そんなもの自体無駄だと言わんばかりに、只管食事に没入している。そんなこと、一度としてだってなかった筈なのに、何故彼は強固に守ってきた理性を捨てたのだろう。本能とは、そこまで易々と頑強に聳え立つ理性を絡めとるのだろうか。
「い…っ」
牙が、頸に痕を創る。一瞬びくりと震えた躰は痛みに怯えたのか、それとも快楽に悦んだのか。
「…いい反応、しやがるな」
 耳元でくつくつと嗤う声がした。べろりと抉った傷痕を舐めて、そのまま私の唇にかじりつく。口腔を蹂躙する舌は、それはうっすら鉄の味。ガンッ、と、私の背後でロッカーと背骨が泣いた。その痛みさえも、別の感覚に喰い潰されていく。
「んぁ…は…く、るし…」
ロッカーと獣に挟まれて、唇も喰われているこの状態じゃあ呼吸もままならないのは当たり前のことで。
「逃げんじゃ、ねえぞ」
息継ぎの為に離した唇も。
「逃げさせてなんか、くれないクセ、に」
呼吸も赦さぬとばかりに追い付いては捕らえる。言いかけた言葉も、いつもの文句も、こうなった以上なんの意味も成しえなければ存在する価値もない。
そんなもの紡ぐ暇があるのなら喰われる事に身も心も捧げろと、ケダモノは言葉もなく言った。
「あ、あ、や、だ、ヒル、魔く…!」
容赦もなく下着の中に手を滑り込ませた。本能のままに、忠実に、確実に私を追い詰めていく。ぐちゅりと響いた水音が、臓物を抉った音に聞こえた。
「ひゃ…っんっあぁ…っ」
「はっ…嫌がってたクセにぐちゃぐちゃにしやがって…そんなに腹ぁ減ってたのか?」
珍しく余裕のない言葉で攻め立てるヒル魔君の言葉にも、もう返事さえまともに返せなかった。

ソウヨ、ワタシハオナカガスイタノ。

躰が勝手に、そう呟いた。
私の口から舌が勝手に顔を出して、彼の唇を舐め上げる。その動作に些か驚いたらしい彼は一瞬だけ眼を見開いて、それでも直ぐに満足そうに嗤った。
その時覗いた牙に喉元を咬み切られてしまいたいと思った私は、とうに狂っているのかも知れない。
不意に触れた互いの舌と舌が妖しく踊る。それは、獣同士のやり取りに似て。
「ヒル、魔、君」
私は、何を言おうとしているのだろう。
「私を咬み殺して、って、言ったら、どうす、る…?」
何を、聞いているの?
「それは、出来ねぇ相談だな」
私の突飛な質問に対して彼は、特に躊躇う事もなくさらりと言ってのけた。額同士をくっつけて、彼は続ける。
「殺しちまったら、一回で終わっちまうもんなぁ。どうせだったら、生かしたまんま、何度でも喰う方が、賢い選択ってもんだ」
なんとも彼らしい回答。いつの間にか取り出したらしい自身を私に押し付けて、耳朶を食みながら彼は言った。
「食欲と性欲は紙一重だっつーのを知ってるか?」
そのまま前触れもなく、彼が、私の中に。
「ひゃ…っんあぁっ、ヒ、ル魔く…っ!いき、なりは、だ…め…!」
ガクンと一度体がしなってロッカーが激しく喚いた。口から到底自分の物とは思えない叫びが迸る。最早、獣と言い換えてもよかった。
理性を棄てて本能にのまれれば、それは既に人間ではない。
「い…っ、あぁっ、は…ん…っ」
「…っ」
 がぶりともう一度、喉元に牙が刺さった気がした。全身から鳴る水音が、血肉を啜る音に聞こえて躰が勝手に痙攣を起こす。何度も何度も揺さぶられて、躰のどこも余すところ無く喰われて、それでも私は苦痛など感じることなく悦楽に溺れていったのだ。欲なんてものはいつだって、苦痛を快楽にすり替えるものなのだろう。事実、飛びかけた意識の中でここは部室でドアの鍵も開けたままだったのを思い出しても、出てきた感情は羞恥よりも快感だった。とんだイカレた思考を持っていると思っても、そんなものはどうだってよくなっていた。
そんなものは、獣は持ち合わせていない感情なのだろうから。そんなものは、本能に縋るには邪魔だろうから。
足も腕もヒル魔君に絡ませて、唇に只管むさぼりついた。爪が彼の肩に痕を遺したけれど、それは私が抵抗したという証。貴方が頸に証拠を遺したように、私も貴方に証拠を遺す。

互いが互いの獲物という、愛にすげ替えられた本能の。


イラスト:against the wind ヤメピ様