1.いってらっしゃいのキス

 いつもの朝の日課。隣りで眠る妖一を起こさない様にそろりそろりとベッドの外へ。いつもの場所に畳んである愛用の普段着。薄い色のブルージンに白地のロケットベアのTシャツ。緩慢な動作で着替えたら、ゆっくりと台所へ。やかんに火をかけてその足で洗面所に向かう。寝起きですっきりしない表情を冷たい水で引き締めて、覚醒しかけた頭でぼんやり考える。
 今日の朝ご飯は何がいいかしら?昨日は鮭を焼いたから、今日は鯵の干物とか。…でもまた魚か、なんて言われるかも。うーん難しい。
そんなことを考えながら洗面所を出て台所に行く。テレビをつけたらコーヒー豆を電動のミルにかけて、着慣れたロケットベアのエプロンを身に纏う頃には頭もだいぶすっきりしていて。
よし、今日は久しぶりにベーコンエッグにしよう!それにサラダとトーストっと。ジャムは…あの人は使わないわね。
そこまで献立を考えたら今度はお弁当の準備。こっちは昨日のうちに下拵えしてあるから楽なのよね。後はダシ巻き卵を焼くくらいかしら。お弁当のおかずを用意してご飯を詰めたら妖一を起こしに行く。
「妖一ー?そろそろ起きてー」
普段は多少の物音で目を覚ます癖に一回深い眠りに落ちると逆に寝起きが悪くなる。そして寝起きは決まって不機嫌。
「…あ?もう朝かよ…」
起こしてあげたのに睨まれた。もう!もうちょっとその眼どうにかなんないの!?とは思ったものの。…慣れって怖い。
「ほらほら、明日は休みなんだから後一日頑張って」
ね?私も頑張るから。その呟きは心の中で。
「………あぁ」
返事をするまでの長い間は覚醒しきっていない証拠。そんな様子を眺めていると、つい頬が緩む。
何ニヤけてやがる。
 あの人がそんな眼で私を見たのとやかんが雄叫びをあげたのは同時だった。その図った様なタイミングの良さに余計に頬が緩むのを抑えながらやかんを止めに小走りした。後ろから溜め息が聞こえた気がしたけれど。それは気にしない方向で。朝ご飯の支度を始めると妖一がシャワーを浴びにお風呂場へ向かう。あ、バスタオル新しいの出しておかなくちゃ。そうやって洗い立ての白いタオルを用意して、妖一が上がって来るまでに食事を用意する。もちろんコーヒーも忘れずに。普段は手動のミルで挽くのだけれど、朝はそこまでしている時間がなくて妖一に頼んで買ってもらった。始めは手で挽かねぇと美味くねぇとかなんとか言っちゃって頑に拒否していたけれど
朝ご飯が手抜きになってもいいならそうするわ。
そう言ったらしばらく考えた後眉間に深ーく皺を刻みながら渋々呟いた。
朝だけだ。
 そんな許可の元買ってもらった電動ミル。お陰で前より余裕ができて、ちょっと手の込んだものも作れる様になった訳だけれども。…まぁ今日はちょっと手抜きなんだけどね。トーストを焼いている間にコーヒーメーカーに挽いた豆をセットする。今日の豆は先週二人で出かけた時に見つけたお店のスペシャルブレンド。果たして彼のお眼鏡に敵うのかしら?ベーコンはカリカリに焼いて。卵は半熟に。マグカップに熱いお湯を注いで。コーヒーのいい薫り。トースターがチンッと鳴る。ドライヤーの音がする。そろそろ出て来るわね。それから数分もしないうちに妖一がいつもの髪型で出て来た。
よくそんな短時間であれだけ立てられるわね。
前にそう聞いたら
髪型ごときでンな時間食ってらんねぇよ。まさかテメェ1時間くらいかけてるとでも思ったか?
意地悪な笑み。思わず動揺してしまった。…図星。だって、そんなにインスタントにできるなんて思わないじゃない?そう思いながらむくれたら耳元で一言。
お前といる時間が減ってもいいならいくらでもやるぜ?
直後に顔が真っ赤になった気がする。妖一が洗面所から出たその足でスーツに着替えに部屋に入る。その間に食卓に朝食の用意をする。最後にマグカップを温めていたお湯を捨ててコーヒーを注ぐ。妖一はブラック。私はカフェオレ。カップを置いて準備完了。席について天気予報を確認する。夕立がくるかもね。折り畳み傘渡さなきゃ。
「今日はトーストか。珍しいな」
匂いを嗅ぎ付けてスーツ姿の妖一が出て来る。始めは見慣れなくて見る度に笑っては睨まれていたけれど最近ではすっかり板について意外とスーツも似合うのね、なんて。
「うん、たまにはトーストが食べたいなーと思って」
「手ェ抜いたな?」
「抜いてません!」
ごめんなさい抜きました。やっぱりバレてるのね…。ムキになる私にケタケタと笑いながらいつもの席についた。あぁ、敵わない。
「今日夕立が来るみたいよ」
「ふぅん」
「置き傘出しとくね」
「おう」
そんな他愛のない会話。BGMはテレビの声。早々に食事を済ますと残りのコーヒーを飲み干した。このコーヒーはお気に召した様ね。だって気に入らなかったら必ず残すもの。この薫りもいつもの顔の仲間入りね。ゆっくりと妖一が腰を上げる。
「そろそろ行くぞ」
「うん、お弁当出来てるよ」
音も立てずに玄関に向かう妖一。パタパタとお弁当片手について行く私。いつもの朝の、いつもの光景。玄関に置いてあった折り畳み傘とお弁当を渡す。
「はい。無理しないでね」
出来る限りの笑顔で送り出す。これはいつもの事。
「あぁ。行ってくる」
妖一が穏やかな笑みで振り返って、そのまま、私の唇にキスを落とす。
 これも、いつもの事。顔が熱くなりながらキスを返す。いってらっしゃいの意を込めて。うっすら赤く染まった私の顔を実に嬉しそうな笑みを浮かべて見てから出かけるのももういつもの話。あぁ、平凡な毎日が、こんなにも幸せだったなんて。いつもの出来ごとにこうも満たされるなんて。さぁお天気が悪くなる前に早く洗濯物片付けなくちゃ。
赤く染まった頬をそのままに、パタパタと洗面所へ向かった。