スタートライン -うつろう青-

 空は透明度の高い青で、空気は冷えて澄んでいる。やや遠くから空っ風に乗って喧騒が耳に届いた。 日曜日の駅前とくれば雑多な人波と無駄に賑々しいのが相場で、 まもりはそこから逃れるように大通りから一歩入ったいくらか狭い道を歩いている。 一つ道が違うだけで、同じ筈の空気が異質なものに思う。 バレンタインデーが近いこともあって、駅の周辺はハートのデコレーションで溢れていて些か浮き足だってもいた。 そんな賑わいから遠ざかって、人通りも疎らな通りを軽やかに進む。 近くの公園で週末の昼下がりを楽しむ人々を横目に見ながらそこを抜けていく。 手には小さなハンドバッグと携帯電話、それから胸に抱えた紙袋が一つ。 購入したばかりの毛糸が歩く度に紙袋と擦れてカサカサと音をたてた。
 つい最近開店したばかりの手芸洋品店は、毛糸の種類の豊富さが売りだった。 家からはやや距離があり滅多にいかない場所だったが、無理をして足を伸ばした甲斐があった。 その店は噂通りで、散々悩んだものの気に入りの色を見つけて心なしか足取りは軽かった。 2月の冷えきった空気も、気分が高揚しているせいか心地よく肺に流れ込んでいく。 手元の携帯の地図を見ながら、不慣れな道をゆったりと進む。 せっかくここまで来たのだから、アレを堪能して帰らなければ。常々行きたいと思っていた、バター薫るパイ生地に、 ホイップとカスタードのバランスが絶妙だと噂されるアレ。アレに合うように厳選されたという芳醇な香りのアッサム。 嗚呼、想像するだけで心が踊る。我ながら、もしかしたら今日の真の目的はこちらかもしれない、と密かに思っていたりはするのだが。
 駅から距離のある少し奥まった所に店はあった。所謂隠れ家的と言った風情の店のドアを開けると、 控えめなドアベルと華やかかつ上品な香りがまもりを出迎えた。 西洋アンティーク風の調度品に囲まれて、明度の落とされた柔らかいオレンジの照明に照らされた空間は、 立っているだけでタイムスリップしたかの様だった。外の乾いて無機質で無愛想な空気など忘れてしまうような、 しっとりとした心地よく不思議な空気に包まれて、思わずまもりは深呼吸をした。
それからまもなく壁際にある二人掛けの小さなテーブル席に通されると、控えめな装飾が施されたメニューを手に取る。 細部まで配慮された店内に知らず期待が高まっていく。 一寸の迷いもなくパイシューとクッキーシュー、それからアッサムのミルクティーを注文して、 メニューを眺めながらいくつかお土産用に見繕う。それからテーブルの上の、壁にもたれ掛かった紙袋に視線を移す。
 控えめなプリントがされたそれには黒と紺青の毛糸が入っている。高校最後のバレンタインデーに手元に残る何かをあげたいな、 と思ったのはつい一週間ほど前の事だ。教室で雑誌を捲りながら同級生と会話に講じていると、ふと特集ページに目がとまった。 『好きを伝えるバレンタイン』とかなんとか、ありきたりなキャッチコピーで女子の気持ちを擽るらしいそれ。 何の気なしに眺めていると、『チョコの苦手な彼に』とタイトルがふられたページのマフラーが目に入った。 そして何となく、本当に何となく、これなら貰ってくれるかも、と漠然と思ったのだった。根拠なんてどこにもない。 悪戯心と言ってもいいのかもしれなかった。
チョコが苦手どころか毒物だと宣って憚らない金髪に、代わりにマフラーで口を塞いでしまおうか。 くるりと首に巻いてあげたら、案外使ってくれるかも。一瞬でそこまで考えて、ふと首をかしげる。 なんで今、マフラーをあげようと思ったのか。悪戯にしてはやりすぎだ。それに付き合っている訳でもないし、 好きだと言ったこともない。 そもそも、「好き」とは、「恋」とはどういうことなのか、イマイチまもりはわかっていなかった。 かつて友人に「恋」とは何かと尋ねたら、相手の事なら何でも知りたくなっちゃうとか、常に相手の事気にしちゃうとか、 それは友でも恋でも大して差異はないのでは、と思える返答ばかりだった。まあ、バレンタインデーなんて 恋とか関係なくあげたりするし別にいいか、と適当なところで思考に蓋をして、 とりあえず毛糸を買いに行く予定を立てることにしたのだった。 入試前の軽い息抜きだと思えばちょうどよかった。だが実際は、軽い息抜きどころか本気で悩んでしまった。 黒一色じゃつまらないし、カラフルにしたら貰ってくれないかもしれない。結局、過去問を解くより悩んで決めた色が黒と紺青だった。 夜闇だけじゃ味気なかったから、夜明け前の空の色を少し足したのだ。時折どこか遠くを見ている様な 、明けない夜を眺めるような眸をする聳える金髪に、いつかは夜明けが来ることを教えたかったのかもしれない。
 ふわりと柔らかい香りがして、シュークリームとアッサムが運ばれてきた。 逸る気持ちを抑えながらマイセンのカップに口をつけて肺にゆったり香りを巡らせる。 ゆっくり息を吐き出して、まだはっきり形にならない自分の感情を探った。 まもりにとって「好き」とは、総じて気にかけたり面倒を見たり何かを与える対象だった。 それは老若男女問わず等しくそうだったし、年を経ても変わることはないだろう。 ただ、セナだけは「心配」が加わったせいか無意識に先を取って過剰なまでに手を伸ばし続け、挙げ句、自らが枷となってしまった。 幼子に与えるような行き過ぎた庇護によって自我も自立心も抑え込んでしまった。 ただ大事にしたかっただけなのに、結局真逆の方向に進んで周囲を巻き込んだ。そして、脆い嘘をつかせ続けたのだ。 友人たちが言った「恋」の定義からするとセナがそれに当てはまるのかもしれないが、 そうするとまもりの周りの人たちは全員恋人と言うことになってしまう。 セナは―結果的に過剰だったとしても―ほんの少しの心配が加わっただけで特別どうこうするという相手ではなかった。 どちらかと言えば、件の金髪…蛭魔に対しての方がセナとは違った意味で気にかかる存在だった。
常に頭の片隅にいる気がするし、動向を気にしてもいる。ただそれが何故なのかはわからない。 バレンタインデーを意識したのもマフラーをあげようとしたのもそれなりの理由はある筈なのに。 サクリと、パイ生地が軽い音をたてて口の中を踊る。バターの香りとクリームの舌触りを堪能しながら物思いに耽った。 軽い音とは裏腹に、気持ちはやや重いものが覆う。 セナの一件以来、誰かを思う事に臆病になってしまった。加減も、感情の名前すらわからないこの状態では、 また同じ轍を踏むのではないか。まぁ蛭魔に関して言えば、進路も同じだし結論を急ぐ必要はないだろう。 今はまだこの中途半端な感情に揺蕩っていたい。マフラーも、卒業ついでの記念品くらいにしておけばいいだろう。 そう思えばいくらか気持ちが落ち着いて、クッキーシューに手を伸ばす。 今度はカリカリと生地が砕けて、さっきまでとはまるっきり違う感触だ。

 今まで他人から好意を寄せられることはあったが、深く考えたことはなかった。それに特別ときめいたこともない。 かっこいいと思うことはあってもそれだけだ。刺激も変化もないけれど、今に不満はなくて腕で抱えられるくらいの幸せが ちょうどよかった。博愛主義上等だ。だから尚更好いた惚れたがわからないのだろう。 それでも、アメフト部に入ってからは微妙な変化を見せていた。本人は、敢えて見て見ぬふりをしているが。 それは未開の地に足を踏み込む勇気が足りないだけなのか、それとも同じ道を辿る恐怖なのか。 もう一度紙袋を眺めながら、カスタードを舌で転がす。マフラーを渡したら、もしかしたら状況が変わるかもしれない。 断られたら、その時に考えたらいい。どこか他人事のようにまろやかなカスタードを味わいながら楽観的に考えて、 最後の一口を名残惜しむように咀嚼していく。美しい彫刻が刻まれた椅子に体を預けて、静かに回るシーリングファンをぼんやり眺める。 くるくるくるくる、まるで今のまもりの思考の様だ。落ち着きなく回り続けて留まることを知らない。 今口の中で崩れているあれみたいに、思考も崩れてくれたらいいのに。そっと眸を閉じてゆるりと頭を持ちあげる。 残りのアッサムに口をつけると、香りで絡めとるように懸念を嚥下して、 考え過ぎる頭をリセットするように軽くかぶりを振って席を立った。
 お土産用にいくつか買い求めて、タイムスリップしたかの様な店内から一歩躍り出る。 相変わらず風は冷たいが、不思議と嫌な感じはしなかった。頭がスッと冷えて、代わりに甘い余韻が姿を表す。 あれだけ悩んでいた割に足取りは軽い。あの空間と甘露な幸せは、思ったよりいい気分転換になったようだ。 鼻唄混じりに駅に向かって歩を進めると、角を曲がったところで道向かいを歩く見慣れた人物が目に入った。 そう、あれは間違える筈もなく。

「ヒル、魔…くん?」

ほとんど音にならない声で、その人物の名を呼んだ。思わず死角に身を隠す。 派手な金髪と厳ついピアスは相変わらずだが、着ている服は独特なプリントの黒トレーナーと濃い色のデニムだった。 私服も威嚇してるみたいなのね、などと思いながら表情に眼をやれば、いつになく険しい顔をしている。 相手はこちらには気付いていないようだ。声をかけようか逡巡して、一歩踏み出そうとした時視界の隅に人影がちらついて 思わずそちらを振り向いてギョッとした。髪は乱れて取りあえず服を着たような雑然とした様相の女が、 金髪が去る方角を見ながら飛び出してきたからだ。酷く慌てた様子で立ち尽くして男の背中を見つめている。 そして、縋る様な、懇願するような声で叫んだのだ。

「待って!ヨウイチ!」

耳に飛び込んだ音が言語に変換されるまで、幾何か時間がかかった。

名前を…呼んでいるようだけど…。ここには私とヒル魔くんとあの女の人しかいない。 そういえば、ヒル魔くんの下の名前ってなんだったっけ?確か、よ…

「よういち、だ…」

やっと言葉の意味がわかって消えるように口をついた。当人は振り向きさえしないが、あれは間違いなく蛭魔に向かって叫んでいる。 歳は、明らかに高校生ではない。肩までの長さの茶髪に、造形を強調するような化粧。 普段は整えられているのだろうそれらをまるで気に留めず、ある建物から彼女は飛び出してきた。 閑散とした商店街にあるには不釣り合いな、派手な色の壁にゴテゴテした電飾、それから、 リゾートホテルをもじったようなネーミング。
そういった経験がないまもりでもその建物が何か気がついたが、理解しようとはしなかった。 急速に眸が渇いて視界に靄がかかる。さっきまでの淡い感情がねじくれて、清々しく肺を満たしていた筈の空気が 突然牙を剥いた様に刺さる。口を包んでいた甘い余韻が苦いものに塗り変わっていく。喉に何か詰まったように飲み込めない。 息の仕方を忘れている。体も、どうしたら動くのかわからない。
あれは誰だろう。あんな場所で、一体何をしていたのか。ただの友達とか、そんなものではないのはわかる。 でも、わかりたくはなかった。解ってしまったら、何かが壊れてしまう気がするから。 考えれば考えるほど頭の中はぐちゃぐちゃで、理解しようとする自分と放棄しようとする自分がせめぎあっているようだ。

 どれ程時間が経ったのだろうか、気がつけばそこにはまもりしかいなかった。 だが、まもりは変わらずそこにいるままだ。肌に触れる風が切りつける様に冷たい。 予期せぬ事態に硬直し続けた腕から力が抜ける。そして、腕から離れた紙袋が、やたら乾いた音をたててゆっくり地面に落ちた。 その音は纏わりつく様で、異様に大きく、酷く耳に障った。