2.涅色に沈む
無駄に凝った装飾の洗面台でゴウゴウ手荒にドライヤーをかけて、髪が乾くのもそこそこに乱暴に其れから手を離す。
ガツンと音をたてるのにも構わずに、無造作にトレーナーに腕を突っ込みながら次の予定を考える。今まで起きていた事は考えない。
無駄だし、第一眉間の皺が深まるばかりだ。もう限界まで引き絞られていて、不機嫌さを隠す気は更々ない。
手早く身支度を済ませてノブに手をかけた時、背後の、今まで意識から抹消していた気配が動いた。
鋭く舌打ちをしただけで、振り返る事無くノブを回す。
「まって」
力無く呼ぶ女の声が聞こえて、一瞬動きを止めた。
「もう、帰るの?」
「飽きた」
「お願い、もう少しだけでいいの。そばにいて」
「そんな義理はねぇだろうが」
「義理って…」
「何を勘違いしてるのか知らねぇが、俺とテメェは単に利害が一致してただけだ。それ以上でもそれ以下でもねェ。
用が済んだら解散だ。そこから先が欲しいなら他の奴を当たれ」
振り返ったりはしない。一瞥もくれてはやらない。とっとと、こんな場所から離れたかった。
「もう終わりだ」
雑に開けた扉に体を捩じ込みながら、身も凍る様な冷えた言葉を投げ付けて部屋から出た。
一人残された女は裸体にシーツを巻き付けたまま、誰もいなくなったドアを見つめる。
会うのは今日で三回目だが、まともに視線が絡んだことも、キスさえもなかった。
それらしい事と言えば辛うじて一度抱きしめられたくらいだ。解ってはいても、割り切れなかった。
後腐れのない体のいい遊びだと思っていたのに、たった三回で嵌まり込んでしまった。
スポーツマンらしい引き締まった体躯にどこか影がある表情。
自分だったらあの影に光を差すことが出来るかもしれない、なんて自惚れたのがいけなかった。
ベッドの上で呟いたささやかな告白で、突然この関係が終わりを告げたのだ。盛大な舌打ちを吐き捨てて、
さっさとシャワーを浴びて帰ってしまった。未練だらけの体を徐に引き上げて、脱ぎ散らかした服を手に取る。
あと一回。あと一回だけだ。
女は妙な覚悟を決めて、手に取った服を手早く身に纏った。
非常に胸くそが悪い。
気分転換のつもりで呼び出したらこのザマだ。あんな行為は右手の代わりだ。他に何も求めちゃいない。
愛だの恋だのくだらないし、好きだなんだとベタベタされるのも鬱陶しい。
だからあっさり割り切れそうなオトナのオンナを選んでいたのに、それでも時折ハズレを引く。
相手がうっかり本気になって、今回の様なコクハクなんていう犬も喰わねぇような戯れ言を吐いたりするのだ。
普段はそんなヘマはしないし、あったとしても一言二言吐き捨てれば事は済んでいた。だが、今回ばかりは違った。
今までで一番不快だった。大人の包容力やらなんやらを強調したかったのか、やたらとわかった気になっている態度も気に入らない。
妙に察しがよく、世話を焼きたがる傾向は、否が応でもよく知る女を連想させて余計に不快になった。
無意識に茶髪で髪型が似た女を選んだのも不味かったのだろう、一回だけ、余程疲れていたのか抱き締めてしまったことがあった。
きっとそれが、今回の失態の原因だろう。どうにもちらつく影を振り払う様に、右手に飽きたら適当な女を抱いた。
一時に比べたら大分落ち着いたものの、最近また頻度が増えつつある。
自分は一体あの女をどうしたいのか、明確に答えが出ない限り終わることはないだろう。
愛とか情とか、幼い頃を振り返っても向けられた記憶はなかった。
物心ついた時から母親はいなかったし、父親も子供よりチェスに熱意を向けていた。
それでも試合に勝った時は多少は親子らしい会話もしたし、果敢に勝負に挑む父親に少なからず敬慕の情を抱いたこともあったのだが、
新たな戦術や世代交代についていけずに負けがこんできて、
自信喪失状態に陥った後は露骨に子供に関心が無くなって家に寄り付かなくなった。
そんな状態を目の当たりにして、急激に全身の熱が冷めていった気がした。途端に全てが馬鹿馬鹿しくなったのだ。
情なんて抱いたところで結局何も起こらない。
それで父親がこちらを向く事もなかったし、自分に対して情が働くことも無かったのだ。
だからハナからくだらないものだと割り切って、関わらないことにした。
思慕やら恋慕やらしょうもないし建設的な事は何もないのだと、そう思えば後は楽だった。
孤独も苦にならないし、他人に何かを期待する必要もない。一人で生きていくにはそれで十分だった。
だがそれも、アメフトを始めてから変化の兆しを見せた。自分が組み上げたプランをチームメイトと実践する。
勝ったり負けたりメンバーが増える度に避けていた「情」が顔を出すようになった。
当初はどう関わるか躊躇いもあったが、今にしたら悪くもないものだった。ただそれも、アメフトに関してだけだ。
それ以上を認めてしまえば、きっと碌な事が起こらない。
アメフト以外にも情を向けている相手がいるなんて事は、認める訳にはいかなかった。
荒い足取りで剥げかけたアスファルトを進む。次の目的地への足を呼ぼうとポケットの中の携帯を握った時に、背後から声が聞こえた。
「待って!ヨウイチ!」
ついさっき部屋に置いてきた女の声だった。
誰が待つか。馴れ馴れしく呼び捨てしやがって。
これ以上関わるつもりはない。最初に言われた気もするが、名前も覚えていないし何者かも知らない。
小石を蹴り飛ばしながら取り出した携帯で、足を呼ぶより先に女の連絡先を消すことにした。
この携帯も解約だな。自分の中から消したって、相手からは消えない。
ならば、足跡を辿れない様にすればいい。辿られてもいいと思う奴はいるが、少なくともすぐ後ろのオンナではない。
手早く連絡先も記憶も消して、そのまま奴隷の一人に電話を繋げて指示を出す。
一刻も早くこの場から離れたかった。欲やら情やら絡みに絡んだ悪趣味な空間から兎に角、早く。