10(最終話).スタートライン

 グラウンドを囲った桜が花を咲かせ始めた頃、この日の泥門高校は普段よりも静かで穏やかだった。銃声も聞こえないし悲鳴も聞こえない。聞こえるのは、校舎から漏れるこの日を喜んだり別れを惜しんだりする声くらいだ。

「やっぱり、ここにいた」

 校内で最も人気ひとけのない屋上のドアが開く。明るい栗毛がドアから覗いて、もう一人の人物-眩しい金髪に向かって歩いていく。普段ならギラギラした金髪も、この空気のせいか大人しい。

「卒業式サボったでしょ」
「学校に来ただけマシだろ」
「卒業証書取りに来ただけでしょ」
「ヨクオワカリデ」

気だるそうにフェンスに凭れる蛭魔の隣に、まもりも同じ様に背中を預けた。

「テメェだってサボってんだろうが」
「式はちゃんと出ました!一通り皆と話せたからいいの」
「サスガ優等生サマはチガイマスネェ」
「栗田くんが探してたよ」
「ケッ、ほっとけ」

ぷくっと膨れたガム風船が、小さくぱちんと弾けた。吹く風はまだ冷たさを孕んでいる。

「高校卒業しちゃったね」
「まだ大学があるだろ」
「またアメフトやるんでしょ?」
「当たり前のこと聞いてんじゃねぇよ」
「私違うことしようかな」
「アメフト部のマネージャー以外に選択肢はねぇぞ」
「もう!また勝手に決めて!」
「ケケケ、他探しても構わねえけどなぁ、見つからねえだろうなぁー」

チラリと胸ポケットから黒い手帳が覗く。その効力はどこに行こうと変わらないらしい。

「大学でも効果あるの?!」
「大学どころか全世界で使えるぞ」
「…パスポートより使えちゃうじゃない」

呆れた溜め息を吐きながら、それでもすっかり元に戻ったこのやり取りに安堵した。

「で、何の用だ」
「え?」
「用事もないのにこんなところに来ねぇだろ、元糞風紀委員」
「…あのね、これ、渡そうと思って」

そう言ってまもりは手元の紙袋を蛭魔の前に付き出した。掌より少し大きいくらいの簡素な紙袋だ。

「本当はバレンタインデーに渡そうと思ったんだけど、ほら…色々あったから遅くなっちゃった」
「……」

蛭魔は無言でそれを受け取ると、中身を無造作に取り出した。柔らかい、紺青と黒の毛糸で編まれたマフラーだ。

「ケケケ、貢ぎ物として貰っといてやる」
「もう!一言も二言も余計なんだから!」

 蛭魔は軽口を叩きながら紙袋を握ってポケットにねじ込むと、マフラーを首に巻いた。首元を抜ける冷たい風を防ぐのに丁度よかったからだ、と心の中で小さく言い訳をした。 まもりは、少し目線を外しながらマフラーをする蛭魔を見て、嬉しくなった。蛭魔の心中は、知らないことにしておく。

「で」
「で?」
「用事はこれだけか」
「え?これだけ、って…」
「言うことあったんじゃねぇのか」
「……………ない、訳じゃない、けど…」
「なんだそりゃ」
「ほら、それって自分のタイミングで言うもので、ね、だから、あの、その…」
「あるんなら早く言えよ。このまま風邪でもひいたら慰謝料請求するぞ」
「ええ?!うーんと、えーっと…」

あたふたしながら頭を悩ませるまもりを見て、己の狡さに蛭魔は内心苦笑した。自分の言葉を使わずに相手に悟らせる方法がこれしかなかったからだ。

「あの、さ」

冷えた空気を目一杯肺に入れて吐き出して、火照った体を落ち着かせてからまもりは言った。目を見据えるように、体は蛭魔に向き直っている。

「好きよ、蛭魔くん」

 ざあぁとやや強めの風が吹いて、葉が擦れる音が呼吸の音とか鼓動とかをまとめてかき消した。それでも、まもりが発した言葉はしっかり、はっきりと蛭魔の耳を打った。有象無象に散々言われたその短い単語を、今程欲したことはきっとなかった筈だ。
 蛭魔はゆっくりまもりに向き直って、空を映した双眸を覗き込んだ。それは心なしか潤んでいる。その原因が自分で、そこに自分の姿しか映っていないという事実に高揚して、独占欲が満たされた。ずっと、腹の底でこれを望んでいたのだろう。
 一歩、蛭魔は足を踏み出した。まもりが怖じ気づいて逃げ出さないことを密かに期待しながら。

 頭上に影ができて見上げてみれば、きらきらした金髪と黒曜石の様な眸が目に入った。心臓が飛び出そうなくらい緊張したまま放った科白は、蛭魔を逃すことなくちゃんと引き留めてくれたらしい。きっと、蛭魔もこれを言わせたかったんじゃないかと思う。自覚が出たところで臭い科白を言うような人じゃなかったし、それを余り期待していなかった部分もある。だから言葉の代わりに何かをくれるんじゃないかとひっそり期待したのだ。
 蛭魔がこっちに向き直って一歩踏み出した時に、只でさえ煩い心臓がより一層跳ねた。視線は重なったまま外れない。身長分の14cmが縮まっていく。踵が勝手に浮いて、瞼が勝手に下がった。本当はずっと吸い込まれるような黒を見つめていたかったけれど、ドラマの人達はみんな閉じていたし、何より実際は顔から火が出る程恥ずかしかったのだ。何事も経験なのかなとか、マフラー似合ってて良かったなとか、まるで場に合わないことを考えている内に唇に柔らかいものが触れた。ミント味で薄い唇。でも思ったより温かい。キスも強気で自信に満ちているのかと思っていたら、ずっと優しくて控えめだった。多分それはほんの数秒で、唇が離れて触れた外気の冷たさが名残惜しさを強調した。だからせめて、余韻に浸ろうと思ったのに。

「ホワイトデーはこれでいいだろ」
「それも込みだ」
「え?!そうなの?!」

余韻は一体どこへ行ったのか。さっきまでの甘酸っぱくて、心臓が高鳴ってロマンチックに溢れていたアレはなんだったのだろうかと思うぐらい、蛭魔の態度はいつも通りだった。

「…もうちょっとなんかあってもいいじゃない」
「じゃあもう一回するか」
「え?!いや、ちょっと、ま…そういうことじゃなくて!」
「言葉なんかいるのかよ」
「え?」
「反吐が出るような安い恋愛ドラマみたいな科白吐けるかよ」
「…まあ、はじめから期待はしてなかったけど」
「だろ」
「でもほんの少しだけ、期待、したかなって…」
「姉崎」

少し下を向いていたまもりは、凛と響いた蛭魔の声にはっと顔を上げた。その眼は真剣そのものだ。アメフトに向けられるそれよりずっと真摯な眼差しに、背中に痺れが走る。

「嫌なら逃げろよ」

 言葉と、一歩踏み出した動きに空気が揺れる。大きな影ができて、それから細いが思ったより筋肉のついた腕がまもりを抱き締めたのだ。ぎゅっというよりは、そっと割れ物を触るような、逃げる余地のある抱き方だった。

「逃げるわけ、ないよ」

声が震える。目が熱を帯びて、蛭魔の胸に顔を押し付けた。両手はブレザーの背中にしっかりと回されて、ぎゅっと握られている。それに呼応するように、蛭魔はまもりを強く抱き締めたのだった。


随分、遠回りをしたと思う。蛇行して、道から外れて、迷子になって。それでもやっと、二人でこの場に立てたのだ。この、スタートラインの上に。