9.滲んだ曙色

 夜の黒美嗟川は真っ暗で、やる気のない街灯の明かりだけでは心許ない。堤防から転がり落ちればそこは闇だ。乱暴に蹴り飛ばした石がまた闇に落ちて、小さく水が跳ねる音が聞こえてはじめてそれが川だったのがわかった。
 夜もだいぶ更けたせいか人通りはほとんどない。忘れた頃にランナーか車とすれ違うくらいだ。今の蛭魔にとってはこれぐらいの暗さと静かさがちょうど良かった。発端は自分のせいとはいえ、周囲をかき乱したこの一件を整理するには都合が良かったのだ。
 愛だとか恋だとか、嫉妬だとか恋慕だとか今まで無意識に避けてきたものを意識せざるを得なくなった。逃げ続けるのも目を瞑り続けるのももう潮時で、現実を見ないといけない。奇しくも、今しがた件の女に言った科白と同じことを、自らも咀嚼しなければならなかった。

 姉崎に、興味はあった。興味はあったが、最初は極々単純な、生物学的好奇心だった。物怖じせず、真正面から目を見据えてモップを振り上げる女は面白いの一言に尽きた。そんな表面的な好奇心は、いつしか欲に置き換わった。それも質の悪い独占欲に。
 きっと、世に言う「好き」の中にはこれも含まれるのだろう。恋心と言うには随分邪だし、ロマンの欠片もないが。適当な石を見つけてはまた蹴り飛ばす。あらぬ方向に転がったり草むらに入ったりするが、進行方向は変わらず前だ。まるで自分の、自分達の状況と一緒だった。取り敢えず進みはしても、なかなか距離は稼げない。会うことはおろかすれ違いさえできないだろう。これを真っ直ぐ進めるためにはどうするか。ストレートに言ってしまえば手っ取り早いのだろうが、生憎そんな素直さは持ち合わせていない。

「月がキレイですねってか」

 どこぞの文豪が言ったかもしれないそれを拝借してみたところで、面と向かっては言えそうにない。素直さどころか、こちとら純粋さも持ち合わせてはいないのだ。
 カン、と甲高い音を立てて小石が跳ねた。何個目とも知らないそれがまた闇の中に落ちていく。薄っすら覚悟は決めてみたが、やっぱり石は真っ直ぐ転がらない。早々に言葉で表すのは諦めることにした。
 言い負かしたり、言いくるめたり、言葉なんてものは無尽蔵に涌き出てきていくらでも相手を翻弄できると思っていたが、肝心な時には何も出てこなかった。思えば、健康的な言葉の使い方などしたことがなかった気がする。大体いたぶるか、揺さぶるかだ。

「面倒臭ぇ…」

面倒だが、このまま放っておく気にもならなかった。きっと、あの女が他の男と一緒にいたら、そいつに笑顔を向けていたら、腸が煮えくり返るなんて生易しいことじゃ済まないだろう。 石を蹴飛ばすのを諦めて、冷えきった空を眺める。雲はない。月明かりが煌々と降り注ぐ。「月がキレイですね」なんて、端的に表すだけじゃ足りない。借り物の言葉で表現できるほど単純ではないのだ。
 モヤモヤはする。ただ、以前のようにイライラはしなかったし、不思議と不快ではなかった。ムサシに詰められて苛立ったあの時の様なことはきっと、もう無いだろう。 はぁ、と一つ大きく息を吐く。肺から押し出された白い靄に、疲労と、ほんの僅かな不安を乗せる。それが霧散すると、蛭魔は何もなかったかのように平素通り帰路に着いた。ウダウダ非建設的に考えるのは全く性分じゃない。さっきの一息で全て吐き出して、月に照らされた金髪はゆらゆら闇夜に消えていった。


 抜けるような晴天。雲さえ見当たらない、絵に描いたような快晴だ。3月に入ったが、まだ春は遠いらしい。まもりはグラウンド脇の並木道をゆっくりと、だが確かな足取りで歩いていた。目的地は、随分久しぶりな馴染みのある場所だ。そこに最後に行ってから恐らく2週間程度しか経っていないのだろうが、もう数年行ってないような妙な感覚があった。それだけ、色々あったと言うことなのだろう。環境も、心境も、強烈な変化がぐるぐる渦を巻きながら、宛らハリケーンの如く駆け抜けていった。それが通過していって、今は心が凪いでいる。
 あの一件以降、実はまだ蛭魔には会っていなかった。会いたくない訳ではなかったが、覚悟を決めたり堅苦しいことは無しにして、いつも通りに接したかった。昔から、なんでも考えすぎてしまうきらいがある。だから覚悟なんて決めたら余計足踏みしてしまう気がしたのだ。
 やっと心も体も落ち着いて、手に持った鞄をブラブラさせて足を部室に向けていた。あそこにいけばほぼ100%かつての主がいるだろう。いなかったらそれはそれで、掃除でもして帰ればいい。 あと少しで部室に着くだろう頃に、反対側から細い人影が近づいてきた。雑に振り上げた足に、揺れた金髪。しまった、こんなところで会う予定じゃなかったのに。

「よお、糞マネ。随分長いことサボりやがって」
「ひっ、久し振りね、ひるま、くん」

心の準備さえしていなかったせいで引き攣った喉から出た声は、驚くほど間抜けな節回しだった。

「テメェがいないせいで部室は荒れまくりだ。卒業前に片付けていきやがれ」
「荒れまくりって…ヒル魔くんが荒らしたんでしょ」
「細かいことは気にすんな」
「気にします!そこ大事なところでしょ!」

ああ、いつも通りのやり取りだ。その短いやり取りで、まもりはなんだか満足した。

「おら、とっとと部室行くぞ」
「うーん、今日はやめとこうかな」
「あ?」
「ヒル魔くん元気そうだし、話もできたから今日は帰るね…って、あっ!ちょっと!」

踵を返そうとしたまもりの手から、鞄がスルリと消えた。消えた鞄は、何故か蛭魔の手の中にある。

「アホなこと抜かしてんじゃねえぞ。テメェの今日の仕事は掃除と書類整理とケルベロスの世話って決まってんだ」
「はぁ?!誰が決めたんですか!」
「俺」
「いつ!」
「今」
「今?!」

スタスタと歩いていく蛭魔の後を追って鞄を取り返そうとするが、ヒョイヒョイ避けられて触れもしない。

「返してよ!」
「部室で返してやるよ」
「ちょっとー!」

ふて寝をしていたケルベロスはすっかり元通りになった2人のやり取りに一瞥をくれて、盛大に鼻を鳴らして寝返りを打った。今日の夕飯はサーロインだな、とか思いながら。