三日月 まもり編

 月が綺麗な夜だった。
霞の様な雲がかかる隙間にくっきりと白く浮かんだ円形が大きく欠けた月。時たま前を横切る雲が光彩を自在に変化させて、レンガできれいに舗装された路を照らす。石造りの町並みの間に走るその路を、月に照らされながら私は歩いていた。布で作られた簡素な靴をぺたぺた鳴らして緩やかに。手には仕事で残った一抱えもある大きな花束と夕食のおかず。
もうそろそろ帰ってるかしら?
最近は一緒に暮らしている彼よりも私の方が帰るのが少し遅くて、家に帰ると挨拶代わりの「腹減った」が聞こえる。

もう!お帰りくらい言えばいいのに!

でも素直じゃない彼の事だからそんな発言を聞いたら聞いたで心配するかもしれない。人間はなんて不憫な生き物なのでしょう。
さあ今日は何を作ろうかしら?今日は昨日に比べて随分早く帰れたから少しくらい豪華なものも作れるかもね。もしかしたらまだ帰っていないかもしれないし。

 ゆっくり降り注ぐ月と街灯の彩の中を歩きながら、ふと空を見上げた。今日は特に見事な三日月で、こんな日は彼に逢った日を思い出す。あの日もこんな見事な三日月が出ている日だった。
あの日暴漢に襲われそうになった時に助けてもらったんだっけ。
 それからなんの巡り会わせかばったり会う事が多くなって、気が付けば一緒に暮らし始めていた。あんな立てた金髪に異常に鋭い目、おまけに厳ついピアスをした人と気が合うなんて到底思えなかったのに。全然素直じゃないし横暴だけど、実はすごく優しくて気を使うのが存外うまかった。非常にわかりにくいけれど。余裕があるあの笑顔も好きだったし、あの低い声も好きだった。でも、こんな三日月が出ている日は何故か、そんな彼の表情が曇る。はじめは表情が曇っているのかすらわからなかったけれど、最近わかるようになってきた。

理由は、未だにわからない。
ところがその理由が、今日、こんなところでわかるとは、全く思っていなかった。

三日月を時々眺めながらゆっくりと歩いていたら、偶然路地に子猫を見つけた。茶色の毛並みで目がブルーの子猫。
あ、まるで私みたい。
思わず、足がそっちに向いた。
行かなければ、よかったのに。
早く、帰ればよかったのに。
子猫は近付くと奥に行ってしまった。つい追いかけて、足を一歩一歩踏み出していく。

一歩。
また一歩。

惹かれる様に進んでいくと、少し開けた場所に出た。そこには、炉端に寝そべるホームレスの男。

その、頭上には。

足場など何もない筈のその頭上には。

黒いローブに身を包んだよく見知った男が三日月の様な白い大きな凶器をホームレスの首元に当てて、それを今にも引こうとしていた。

黒いフードの合間から覗く金の髪。特徴的な、あの嗤い。
あんな特徴的な容姿の人間はそうそういない。信じたくないのに、目の前の存在がそれが現実だと語る。

嘘、だ。

目の前の状況は夢だと。思い込むのに必死だった。
その時力の抜けた腕から零れ落ちる、大輪の花々。
その音に気が付いたのか、勢いよくこちらを見た鋭角的な眼と眼が合った。
男は今までにない程驚愕して、苦虫を噛み潰した様な顔を浮かべて一気に男に当てた三日月を引いた。

 私はただただ息をするのも瞬きさえも忘れて、それを見つめていた。ただ、夢なら醒めて欲しいと。目の前にいるこの男が、いつも一緒にいた筈の彼だなんて一体なんて冗談なんだろう。首に鎌を当てられていた男は、鎌が引かれた直後突然苦しみだしてそれきり全く動かなくなってしまった。
血など、一滴も流れてはいない。だが、多分、絶命したのだ。それは側に寄らずとも、なんとなくわかる。

そうだ、あの人はもう家に帰ってる筈なんだ。だからここにいるのは全くの別人。そう、しらないひと、なんだ。

ぼんやりと、現実逃避に走った私の目の前が、突然黒に覆われた。そして、一言、私の、頭上から。
「俺が、見えるのか?」
それは質問ではなく、確認。
「今のも、見たな?」
声にこの上ない程の苦々しさを乗せて。私はゆっくり彼を見上げて、ゆっくり、頷くしかできなかった。頬が、心なしか湿気を帯びている気がする。
彼の顔が歪む。今まで見た事もない程に。
全身黒いローブに身を覆って後ろ手に大きな鎌。小さい頃に聞いた昔話に出てきた死神にそっくりな、私の愛しい人。ゆっくりと、三日月を、私の首に添えて、ゆっくりと、言葉を吐く。
「お前にだけは、見られたくなかった」
苦く。重く。彼の指が私の頬をそっとなぞる。雫を、掬い取る。この感触が。この仕草が。愛おしい。
「私は、死ぬの?」
鎌を私の首に添えた彼の肩がぴくりと僅かに揺れた。眉間の深い皺は、一向に元に戻る気配も無い。
「さぁ、どうだろうな」
カサカサと音を立てて彼の唇が動いた。酷く億劫そうな動きで。
「もう、一緒に、いられないの?」
「…聞くな」
血が滲んだ様な声。
「わたし、は」
こえが、ふるえる。
「私は、貴方が何者であろうとも、貴方だけを

 悠々と光を湛え続ける三日月が地上を照らして、私の首元の三日月を反射させていた。一陣の風が、音もなく、足元に散った鮮やかな花々を、蹴散らしていく。その光景を視ていたのは、頭上で揺らめく妖艶な白い鎌だけだった。