三日月 蛭魔編

 嫌な天気だった。
雲に混じって月が出てやがる。それを確認して眉を顰めた。白銀の鎌とでも呼べる様な鋭利な三日月だった。
こんな日は嫌が応でも仕事しねぇとなんねぇ。チ、と一つ舌打ちを零して普段の帰路から逸れて裏路地に入った。

 日頃は人間となんら変わり無く平凡に仕事して平凡に生活する。ちゃんと寝るしちゃんと飯も食うしちゃんと欲求とか言うモンもある。そうやって現世に紛れ込んで万死に値する人間を選別するのだ。 自然死とか病死とかいう「寿命」に準じている死は「神」が司ってんだが、所謂突然死とか変死とか言われる「不可解な死」は「死神」が仕切っている。基本的にそういう「死」に直面する人間っつうのは碌な生き方してねぇ奴が多い。なんせそういった類いの人間を選り分ける為の「選別」をわざわざ人間に紛れてしている訳だ。

そうして選別した人間を、三日月の晩に狩り堕とす。
それが、死神たる俺の「本業」だ。

 神が世界を創った辺りから延々そんな作業を繰り返してきている。当然俺は人間 じゃねぇから歳は食わねぇ。ほとんど空気と同じだと言い換えてもいい程に周囲に溶け込んで気が付けばそこにいる、 っつうのが死神の特徴だ。ちなみに本業中は普通の人間にゃ姿は見えねぇとかいう便利な体でもある。元々死神には人間生活するにあたっての知識やら感情やらが全て備わっている。ビジネスマナーも喜怒哀楽もその他の欲も諸々ある、が。唯一備わってねぇのは「愛欲」だ。死神にそんなモンは必要ねぇだろ?なんせ死に導く存在だ、俺がそれに執着してどうする。
仕事の邪魔になるだけだ。だから、いらねぇ。

そう、思ってたんだがな。

創世から数千年そうやって現世をふらふらしてたクセに、ここに来てとんだ誤作動を起こした。
女に、惚れてしまったのだ。
 きっかけは暴漢に襲われていた女を偶然助けた事だった。単なる、気紛れだった筈なんだがな。
その偶発的な気紛れがそのうち意図的なそれに取って代わって、気が付けば寝食を共にしていた。奴との生活は驚く程飽きねぇ。こうまで人間に気を赦せてしまうものかと自問してしまう程に。 自分で言うのも難だが大抵の人間なら近付かねぇ俺の奇抜な容姿にも、一切の抵抗を見せない女に始めは訝りもした。ところが何度か会っていくにつれ、そんな突飛なところが気になり始めた。 容姿に似合わぬ強靭さ、眼の奥に潜む意思の強さ、笑顔の柔らかさ。
 見事に、深みに嵌まったらしかった。まるで底なし沼と変わらぬそこは、暴れる程沈んでゆく。だから、暴れるのをやめた。その抵抗が吉と出たのか凶と出たのか、じっとしてりゃ存外居心地がよく、気付けばそれが当たり前になっちまった。幸い愛欲が備わる事は罪にゃなんねぇからこうやって同居生活が続いている訳だ。基本的に禁忌とか言うモンはほとんどねぇんだが。
それでも決められている禁忌は二つ。

一、死に値しない人間の殺生を禁ず
一、正体を知られるべからず

まぁ普通に死神業やってりゃ絶対犯す事のねぇ罰則だな。だから、脳天気に生きてきた。仕事して本業もして人を愛して愛されて。

だから。

他の死神に比べりゃ大層恵まれちまってんなとタカ括ってたのが悪かったのか。
まさかこんな事になろうとは良過ぎた俺の知能を持ってしても全く予測出来なかった。

 裏路地を抜けて開けた通りに出た頃には、俺はすっかり「仕事着」だった。こうなってしまえば、もう誰も俺の姿を視認する事などできまい。音も無く飛び上がって路上で呑気にいびきをかく糞爺ィの頭上で留まる。スッと手を円弧に描けばまるで始めからそこにあったかの様に白銀が姿を現した。
それを、首に静かにあてがう。
コイツは自ら生きる事を放棄して尚、他人の生をも脅かしている傍迷惑なヤツだ。現に、命を奪う事さえ、少なからずあった。だから俺は当然の様にコイツの寿命を終わらせる。それが仕事だ。それがコイツの運命だ。
だから、何も、不安に思う必要はないのだ。
鎌を引く直前、口元が自然に嗤いを形作った。ちゃんと飽きない様にこの瞬間は少なからず悦が得られる様になっているらしい。用意周到と言うべきか。

その時だった。
視界の端に、猫が映った。薄茶の毛に碧眼の猫。
あぁ、あの女にそっくりだな。
何故そこで、躊躇したのか。
その一瞬の、刹那のためらいが、命取りになった。
とっととこの糞爺ィを殺っちまっていれば、本業を終わらせちまっていればどうということはなかった筈だ。

カサリと、乾いた音をたてて地面を滑る音がした。無意識にその方向に眼を遣る。その、視線の先には、瞠目した女の、潤んだ碧だった。
瞬間、確信した。

視えて、いる。

糞!
がむしゃらに男に鎌を振り落としてその勢いで返した身で女との距離を詰めた。
おい、なんで視えてんだテメェは。なんでよりにもよってテメェなんだ。
惚けたままの女に心中で問うて女の眼前に止どまった。体は宙に浮いたままだ。漆黒のローブが銀の光を受けてグレーに染まってはためいた。その音が、やたら空虚に耳を打つ。
「俺が、見えるのか?」
 敢えて聞いた。出来れば、聞こえていないで欲しかった。今のこの状態で見えていないとか聞こえていないとか、そんなものを望む事自体滑稽でならないが、そんなものにさえ縋らねばならぬ程、俺は追い詰められていたらしかった。
万事休す、だった。
「今のも、見たな?」
女が音も立てずに俺を見た。
糞。
せめて、首を縦に振らないでくれ。
そうすればまだ、おれもおまえもすくわれる。
だがそんな掴めない希望を知ってか知らずか女は静かに頷いた。
糞、畜生。
歯が、唇を突き破る。吐き気がする程の鉄の味がした。
「お前にだけは、見られたくなかった」
嘘じゃねぇ。紛れも無い事実だった。鎌の切っ先を、女の首に。手に力は入らない。碧から雫が溢れる。俺は眉間に皺を寄せてそれを拭ってやるしかできなかった。
指先に、ざらりとした何かが遺る。
「私は、死ぬの?」
不覚にも、肩が震えた。
こわいコワイ怖い恐いこわい。
見るな。喋るな。それでもまだ何かを話そうと言うのなら、俺が愛したその唇で、全て夢だと告げてくれ。
「さぁ、どうだろうな」
心中悟られない様に言葉を吐き出すのが精一杯だった。
「もう、一緒に、いられないの?」
「…聞くな」

糞。

 それはこの俺が、プライドやら意地やら全てかなぐり捨ててでも聞きたい事だった。神が愛欲を死神に与えなかった理由がわかった気がする。互いに愛するという事は、互いに正体を曝け出すのに等しいのだ。だからその分情だとか勘だとか目に見えないものが一番鋭敏に働く相手でもある。だから、コイツには俺が視えた。俺はコイツに、気を赦し過ぎたのだ。
 結局「愛欲」によって、俺は二つの禁忌のどちらか、若しくは両方を犯さざるを得ない状況に陥っている。この女を殺せば、正体を知る人間は消えるものの無実の人間を死刑にした罪で俺は処刑される。この女を助ければ、コイツは今までの生活に戻れるが正体がバレた罪で結局処刑だ。
どちらを選んでも、結局どっちも救われねぇ。
俺もお前も、もうどっちが欠けても生きられないように、なっちまった。
確かに俺は死神だから寿命なんぞ無く、テメェは人間だからそのうち寿命で死んで別たれる事にはなるのだが、今の状況は明らかにそれとは違う。それならまだ俺も、我慢出来たのだ。

糞。

自らの罪に赦しを請うのなら神に縋れと言われれば、それさえも辞さないかもしれない。じわりと滲みた液体が苦い。血が、口を蹂躙する。
「わたし、は」
微かに震えた女の声が、脳髄を揺さぶった。
「私は、貴方が何者であろうとも、貴方だけを
さあ、先を聞くべきか、それとも声を止めてしまうか。
月が揺れる。花が風に弄られる。

その先を聞いたら、俺は間違い無く、神を裏切る。
断罪も贖罪も必要ねぇ。
業火で我が身を灼くというのなら、喜んで受けてやる。

それでテメェの、気が晴れるなら。