6.子供と大人の境界線

 糞親父の黒い背中が見える。小型のフライパンが上に下にと動く度にじゅうじゅう音をたてながら、醤油とごま油が焼ける匂いがした。腹が鳴りそうだった。中に入ってるのはキノコとベー コンとにんにく。キノコの名前は確かえーとエリ…エリ?
「なー親父ーそのキノコの名前ってさー」
「エリンギ」
 そう、それだ。初めて見た時はまずそうだなと思ったものの、意外に食えたもんだった。子供用の背の高いイスに座って足をぶらぶらさせながら、優しいとかいう単語が似ても似つかない糞親父の背中を眺める。俺はできれば今それを食いたいんだが、食いたいと言えば食わせてくれるんだろうか、うちの糞親父は。
「なーそれ」
「テメェは魚肉ソーセージでも食ってろ糞ガキ」
…なんでわかったんだ?
「なんでだよ、食ったっていいだろそのエリなんとか」
「エリンギだっつってんだろ糞馬鹿」
仮にも自分の息子に悪態を吐きながら、それでも振り向きさえしない。
「なーなんで食わしてくれねぇんだよー」
意外にも料理が上手い事を俺は知っている。
「五月蠅ぇな、酒のつまみなんだよ。食いたかったら早ぇとこ大人になりやがれ。ケケケ」
大人っつーのはハタチになりゃあいいのか?
「ハタチまで待てねぇよ」
「まぁ酒飲める年齢はハタチだがなぁ、ハタチ イコール 大人とは限んねぇな」
なんだそりゃ。ジュッと音をたててエリなんとかとベーコンとにんにくが宙を踊る。
「わけわかんねぇよー」
ジタバタ足を動かす度にぎゅうぎゅうイスが泣いた。
「ケッだからまだ糞ガキだっつーんだよ。おい、皿出せ皿」
やっぱりこっちを振り向かずに後ろに向けた親指だけで言った。その方向には食器棚に入った中くらいの皿。
「おい糞親父、人に物頼む時は相手の目を見てていねいに言えって母さんが言ってたぞ」
「五月蠅ぇとっととりやがれ」
…りふじんもいいところだ。
「…へーへー」
しょうがねぇからイスから飛び下りて、食器棚の前までイスをずりずり引きずってヒョイと飛び乗る。そうじゃねえと届かねえ。
ところが。
ありえねぇ事にイスに乗ってもちっとも届かなかった。あろうことかかすりもしねぇ。それでも頑張って、爪先立ちで立って更に腕を伸ばしてうんうん唸っていたら、後ろから長い影が伸びていともたやすく目当ての皿を持ってった。すぐ真上には、なんとも言えない笑顔。
「ケケケ、ファッキンチービ」
…絶対ぇこれがやりたかったに違いねぇ。糞っ大人っつーのは身長か!?身長の事なのか!?
「…今に見てろよ糞親父!絶対ぇテメェよりでっかくなってやる!」
「ほー威勢の良い事で。だがなぁ背がでかくなる イコール 大人になるっつーんでもねぇぞ?」
…だからなんでわかるんだよ。
「じゃあなんなんだよ」
むくれながら糞親父に言えば、皿を手にコンロに向かいながら黒い背中が答えた。自問自答みたいな答えだったけども。
「あー『自分の世界から出りゃ大人』とかいやぁ分かりやすいのか?」
「なんだそりゃ。ニュースとか新聞とかで世の中見てりゃいいのか?」
「バーカそんな在り来たりな事じゃねぇよ」
ますますわけがわからん。
「じゃあなんなんだよ」
糞親父が皿にエリなんとかをよそいながら何事か言おうとしたちょうどその時、風呂から上がった母さんと姉貴の声がした。
「妖一ー妖くーん、お風呂出たよー」
「出たよー」
「「おー」」
糞親父と声がかぶったのはちょっとしゃくだった。
「あーそうだ糞息子」
何か思いついたらしい。ニヤニヤ笑いながら俺を呼ぶ。
「なんだよ」
「あの女見てりゃわかる」
そう言われて思わず母さんと糞親父を見比べた。…何が言いてぇんだかさっぱりわからん。
「…何がわかるんだよ」
「わかった時が大人になった時、だな」
「は?」
目が点になったまま、糞親父の前で直立不動。やっぱりうちの親父はいろいろ超越してると思う。
「あ、妖くん、ちょっと」
「うーん?」
 そうしたら後ろから母さんに呼ばれたから、返事をして側に駆け寄る。その時チラッと後ろを振り向いて、真っ黒な悪魔を視界の端で見てみれば、今まで見た事ない様などえらく柔らかい顔で母さんを見てたんだ。…おぞけがはしる、とか言うんだ、確か。
大人になるっつーのは実は怖いことなのかもしんねぇと、ドキドキ脈打つ心臓を無視しながら思った。