混迷のティーパーティー/魅惑のバニラアイス(2本詰め)

【混迷のティーパーティー】

「今度の日曜日空いてる?」

 そう言って電話がかかってきたのが金曜日。そして約束をした今日、鈴音とまもりは木漏れ日差し込むテラス席で顔を合わせていた。
 電話口ではいたって普通だと思ったのだが、まもりの様子がおかしい気がする。いつも通りの笑顔の筈が、口角がやや引き攣っていて目が笑っていない。

「…まも姐、何かあったの?」

 まもりオススメのシュークリームが絶品のカフェに来たと言うのに、とてもテンションが上がっているようには見えなかった。

「あのね」

そっとメニュー表を広げながら、まもりは口を開いた。

「ヒル魔くんと、別れようと思って」
「……………え?」

予想だにしない一言に動きも思考も止まる。ついでにここがどこなのかも忘れてしまった。

「えぇーーーーー?!」

 鳥の囀ずりと葉擦れの音がBGM代わりの、カフェテラスにはそぐわない音量で出た声に周囲からの視線を一気に集めて、慌てて口を手で押さえて体を縮こめた。そっと口から手を離して、今度は静かに声を出した。

「なんで?あんなに仲良かったのに?半同棲みたいな感じだったでしょ?」

 2人が進学した最京大は関西にある。だから進学と同時に一人暮らしを始めて気付けば付き合うようになり、今では半同棲状態という鈴音のアンテナが伸びきるような状態だったのだが、ここに来てなんと別れるという。

「だって………なんだもん」
「え?なんて?」

メニュー表に口元が隠れてよく聞き取れない。

「だって、海に行かせてくれないんだもの」
「はぁ?」

 ゴニョゴニョと拗ねた子供みたいに呟くまもりの一言に一気に力が抜けた。さっきの爆弾発言は一体なんだったのか。天地がひっくり返ったような衝撃を受けたのに、あの衝撃を返して欲しい気分になった。

「…すみませーん」

 小洒落た丸テーブルに頬杖をついて、気の抜けた体をなんとかささえて店員を呼ぶ。とりあえず何かを腹にいれないとやってられない。手早く自分とまもりの分のシュークリームセットを頼むと、気を取り直して質問をした。

「…まも姐は海に行きたかったの?」
「そうなの!かわいい水着買ったし、パラセーリングとかウェイクボードとかやりたかったの!大学生活最後の夏休みだし、部活も全部参加しなくていいし!」

待ってましたとばかりに上半身を乗り出して一気に捲し立てる。こんなまもりの姿はなかなか見ない。余程海に行きたかったんだろうか。

「どんな水着買ったの?」
「えっとね…これ。かわいいでしょ?」

 そういってケータイ画面を見せられると、そこには白のホルターネックのビキニでバスト部分にはフリル、ボトムにはモンステラのプリントがされた水着を試着したまもりが写っていた。

「わー!かわいいね!まも姐すごく似合ってる!」
「でしょ?!すごく気に入ってね、だから海に行きたいってヒル魔くんに言ったんだけど、写真見るなり却下って言われて」
「そうなの?ふーん…」

 差し出されたケータイを受け取って、鈴音はしげしげと眺める。色白だが健康的な肌に澄んだ碧眼、バストとヒップを際立たせるように綺麗に括れた腰、元々豊満なバストもフリルのせいかボリュームが増して見える。ボトムはどうやらヒモで止めるタイプのようだ。

「この水着ってさ、後ろはヒモだよね」
「そうなの!結構細いんだけどねー夏だしいいかなって」
「下はヒモパン…だよね」
「うん、でもしっかり止まるから大丈夫よ」
「そういう問題じゃないような…」
「そう?」

まもりがきょとんとして首をかしげると、さらりと赤茶の髪が滑った。木漏れ日を浴びてきらきらして見える。

「あのさ、まも姐、多分よーにいが海行くなって言うのってさ」

 タイミングが良いのか悪いのか、ウェイターが注文したものを持ってきた。たっぷりのホイップクリームから桃が顔を出していて、恭しく皿に盛られている。まもりは小さく感嘆の声をあげながら、すっかり気はシュークリームに持っていかれていた。
 話の勢いが削がれて、はぁ、と鈴音は小さくため息を吐き、アイスティーを口に含んだ。夏の照りつける陽射しの下、あの白い水着をつけて赤茶の髪を煌めかせながらバランスのとれた肢体を惜しみ無く晒すまもりを想像して、蛭魔が嫌がった理由が分かった気がした。ましてや、ヒモパンなんて
女の自分だって、ちょっとドキドキする。

「…愛されてるねー」
「え?何が?」

ほんの数分物思いに耽っていただけでまもりの皿からはシュークリームが消えている。

「まも姐が」
「誰に?」
「よーにいに」
「どこが?!」
「だってさ、海行ったら他の人もたくさんいるでしょ、老若男女問わず」
「うん」
「その水着着るよね」
「もちろん!着たいから買ったんだもの」
「他の人に水着姿見られたくなかったんじゃない?」
「え?なんで?」
「だってすごく可愛いもん!ナンパだって多分されちゃうよ」
「ナンパ?!されないよー!だってそんなに可愛くないし」

 両手を前に付き出して必死で否定しているが、全くそんなことはない、と鈴音は思った。鈍いのは相変わらずで自覚もないとなれば、尚の事蛭魔は海には連れて行きたくないだろうな、とも。

「…よーにいも大変だなぁ」
「おー、ヨクゾワカッテクレマシタ」

ぼそりと呟いた一言に、まさかの人物から返答が来て盛大に体が跳ねる。視線を上にずらせばまもりの後ろに声の主はいた。

「よーにい!」
「急に家飛び出したと思ったら優雅にティーパーティーかよ。どこぞのアリスじゃあるまいし」
「………」

ぐっと俯いて、まもりはスカートの裾を握りしめながら呪詛の様に言葉を吐き出した。

「…帰らないわよ。もう別れるんだから」
「アァ?!」

蛭魔の額にビキリと青筋がたって、周囲の空気も凍る。セナの悲鳴が聞こえた気がした。

「学生最後の思い出作りたくて水着も買ったのに、取り付く島もないくらい駄目だの一点張りなんだもの。もうちょっと話聞いてくれる優しい人探そうかしら」

どんどん暗雲が立ち込めてくる。この場にいる身としては正直気が気じゃない。犬も食わない喧嘩でここまで空気が澱むことが果たしてあるのだろうか。

「ほんっとうにテメェは自覚がねぇんだな」
「何の」
「テメェが歩いてるだけで虫が付くんだよ」
「はぁ?虫って何よ!」
「よく道聞かれるだろ」
「うん」
「練習試合で相手チームの連中に話しかけられたりするだろ」
「うん、どんな練習してるんですかとか」
「飯行って俺が便所いってる間に隣の席のヤツに絡まれたりするだろ」
「うん、する」
「それで知らない間に揉みくちゃにされて助けてやったよなぁ、しかも一度や二度じゃねぇ」
「あ…うん」
「そんな状態で裸同然で海なんか行ってみろ、食ってくださいって言ってるようなもんだぞ」
「食ってって…!そんなこと」
「ねぇって言えるか?」
「言えない…かも、知れ、ない、です」

どうやら思い当たることはあったらしく、不自然に言葉を切りながらまもりは緩慢に頷いた。

「だからプライベートビーチ行くぞ。人の話の途中で飛び出しやがって、どっちが取り付く島がねぇんだよ」
「え、嘘…」
「嘘なんかつくかよ。テメェがやりてえっつってたアクティビティとかもやらせてやる。だから帰るぞ」
「うん!ありがとうヒル魔くん!やっぱり別れるのやめる!」
「当たり前だ、糞」

まもりは残っていたアイスティーを飲み干して、鈴音に申し訳なさそうに微笑む。

「ごめんね鈴音ちゃん、急に呼び出したのに先帰っちゃって」
「いいのいいの!良かったね、よーにいが考えてくれてて」

ここは払っておくから。引き留める間もなくそう言って、まもりは立ち上がった。レジへ向かおうとするまもりの手から蛭魔が伝票を奪って何かを話していて、そのまままもりは進路を変えて店の敷地内から出ていった。どうやら外に車が止めてあるらしい。
 鈴音は最後の一口のシュークリームを食べ終えて自分も帰ろうとしたその時、不意に蛭魔に声をかけられた。

「糞チアはゆっくりしてろ」
「え?でも一人でお茶するのは寂しいし…」
「問題ねぇ。糞チビ呼んである」
「え?セナ?」

さっき聞こえた気がした悲鳴は、空耳なんかじゃなかった。

「糞チビ!」
「はっ、はいいぃぃぃ!!」

呼ばれたセナは目にも止まらぬ速さでやって来て、まもりが座っていたイスにロボットの様に腰掛けた。しばらく緊張が解れることはなさそうだ。

「手間賃だ。好きに使え」

パサ、と乾いた音を立てて置かれた伝票には札が挟まっている。

「ちょ、よーにい、これ…」
「手間賃だっつったろ。じゃあな」

振り返りもせずにヒラヒラ手を振りながら、それでもどことなく楽しそうに蛭魔は車道へと消えていった。
結局ラブラブを当て付けられただけだったな。
そう思いながら鈴音は、未だに硬直しているセナのためにコーヒーでも頼もうとメニューを開いた。


【魅惑のバニラアイス】

「あっちぃー…」

 グラウンド脇の大きな木に背中を預けて腰かけて、恨みがましく空を見上げる。嫌みな程の晴天、夏真っ盛りだっつーのに入道雲の一つもありゃしねぇ。
 高校最後の夏休み、秋大会には出られないが情報収集くらいならできる。練習ついでに少しでも纏めておこうと来たものの、よりにもよって今日部室のエアコンが壊れた。冷媒がイカれたんだか温風しか出ねえ。殺す気か、糞。修理を呼んだもののそれなりに時間はかかるらしく、突っ立ったままなのも暇で木陰に入ることにしたのだが、涼しそうだったのは見た目だけでほとんど体感温度が変わらねえ。風は吹いても温いし、蝉の声が只管降ってきて五月蝿いし、汗は止めどなく流れるし。
 練習をしようにも開始時刻はまだ先だから自主トレくらいしかやることがねぇ。それさえもやる気が起きずに珍しくダラダラしている。今ここにいるのは俺と、暑くて伸びてるケルベロスと、コンビニに買い出しに行った糞マネだけだ。

「糞マネまだかよ…」

水分を買ってくると言ってた割に時間がかかってやがる。どうせシュークリームやらアイスやら糞甘臭ぇモンに翻弄されてるに決まってる。
陽炎のように揺らめく空間の先に、夏服を身に付けた茶髪の女が見えた。ようやく戻ってきやがった。

「おまたせー」
「遅ぇ。どこまで行ってやがった、地球の裏側か?」
「アイス食べようと思ったら迷っちゃって時間かかったの!ヒル魔くんはアイスはいらないでしょ?はい、お水」

ほら、ビンゴだ。

「そんな甘臭ぇモン食えるか」
「これだけ暑かったら食べられるかもしれないよ。はい、ケルベロスもお水。冷えてるからね」

 そう言って、糞マネは律儀に話しかけながらケルベロスの水入れにそれを注いでいく。今まで伸びていたくせに糞マネの声を聞いた途端跳ね起きて、浴びるように…いや、浴びながら水を飲んでいる。地獄の番犬はどこへ行ったのか、糞マネに対しては牙が抜かれてしまっている。
 草が擦れる微かな音をたてながら糞マネが隣に座って袋からアイスを取る。頗る嬉しそうな顔しやがって、そんなモンのどこが良いんだか。
 ビリリとパッケージを破ってバニラアイスがチョコにコーティングされているそれを取り出すと、そっと唇に先端を押し付けた。それが何故かスローモーションに見えて、何とも言えない光景に目が外せなくなる。

「ん?どうしたの?」
「イエ、ナニモ」

 凝視しているのに気付いたのか糞マネが視線だけこっちに寄越す。晴天と同じ色の瞳と、血色のいい唇と、押し当てられたアイス。何だこれは。目のやり場に困る。
 チラリと視線を寄越しただけで、あとは気にせずアイスを齧り出した。揃った歯がアイスに沈んで、唇がバニラに溺れる。バニラアイスの残滓がふっくらした唇をてらてらさせて、それを満足げに赤い舌が舐めとる。その表情は恍惚に近かった。
 ゴクリ、と喉が鳴る。暑さにやられて頭が沸いたのか、どうにもうまそうに見える。溶けたバニラが伝うチョコが、それをくわえる唇が欲を誘う。何の欲かは明言しない。こんなもの認めてなるものか。
 汗で張り付いた赤茶の髪が項から首筋のラインを強調して、そのままするすると視線が胸元に落ちる。ブラウスのボタンが今日に限って3つ開いている。暑いせいか血色がいい。形のいい双丘がふとした弾みに揺れて、ほんの少し朱が差した肌にバニラがポタリと垂れた。その事に糞マネは気付いていない。手にしたペットボトルは口を開けられないまま手の中で温くなっていく。強すぎる陽射しに焼かれて、脳みそも喉も干上がっている気がした。

「糞マネ」
「ん?なあに?」
「アイス俺にも寄越せ」
「え?!ヒル魔くんアイス食べるの?!もっと早く言ってよ、食べ終わっちゃったじゃない」
「まだある」
「え?」

さっき胸元に垂れたバニラに向かって顔を寄せてペロリと一舐めした。

「ひゃっ!」

色気も何もない悲鳴が聞こえて糞マネが身動いだ。

「なっ、なにしてっ…!」
「アイス食ってる」
「はぁ?!それっ違……っ」

 焦って喚く糞マネを無視して、アイスでコーティングされた唇を喰らう。甘い。味も、匂いもだ。汗と混じって余計に味覚と嗅覚を刺激する。いよいよ脳髄が焼ききれそうだ。
 尻のポケットからほねボーンを取り出して後ろ手でケルベロスに見せる。それで察したのだろう、ガフッと小さく呻いたのが聞こえたのを合図に正門の方向にそれを投げた。鋭い爪の音から数秒後、糞チビ共の悲鳴が聞こえる。よし、今日のケルベロスの晩飯はヒレステーキだな。

「は…待って、ヒル魔、くん…セナ達来ちゃ…」
「来ねえよ。ンなこと気にしてねぇで大人しく喰われてろ」

 暑い。体の底が熱い。蝉の声が鼓膜を限界まで刺激して、あらゆる感覚を麻痺させる。理性は疾うに手放していて、タガは元々外れている。全部、夏と蝉とこの女のせいだ。そう盛大に責任転嫁して、俺は未だにほんのり甘い唇に貪りついた。