消えた人影 1

目の前は闇。
聞こえる微かな葉の擦れる音。
頬を滑るは心地好い風。
 それらに混沌としていた意識が引き摺り上げられて、重い瞼をゆっくり開いた。薄ら差し込む陽光が闇を仄白いものに変えて、それが眩しくて動きが緩慢になる。そうして漸く瞼を開けば白い天井が目に入った。目の端に映る風に漂う白いカーテン。覚醒するにつれ、体の感覚も引き戻される。少し頭を動かして状況を把握しようと試みた。
自分は今、見知らぬベッドの上に居た。
 規則正しくほんの僅かだけ振動するベッドに気がついて、体重がかかった様な重みと微かな温もりが伝わる脇腹付近を見た。そこには、安らかな寝息をたてた、栗色の髪の女がいた。ベッド脇の補助椅子に座り腕を枕替わりにして眠る女。

見覚えがある。
いや、見覚えがある、ではない。
もっと、近い、深い関係だった様な。
思考を巡らせる。

頭の奥が軋む。その動作が何故か鈍い痛みを呼んだ。

だが。

結局その女が何者なのか、思い出せなかった。


* * *


 妖一が入院している病室のベッドの上で知らない間に突っ伏して眠ってしまっていた。3歳になったばかりの娘の彩菜を幼稚園に預けてはお見舞いに来る、という生活をここ最近繰り返していた。妖一が事故を起こしたのは2週間前だった。仕事の帰りに対向車が反対車線に乗り上げて、正面衝突は免れたものの避けきれずガードレールに衝突したらしい。その連絡を電話口で受けた時、確かに目の前が真っ暗になったのを感じた。辛うじて搬送先の病院名を聞き取ったものの、それ以降電話口の声が音としてさえも認識されなくなって、瞬きをすることも忘れてその場にへたりこんだ。全身から力が抜け落ちて持っていた受話器が力なく宙にぶら下がり、目的を失ってただ彷徨っていた。そんな私の様子を不思議に思って駆け寄って来た彩菜を強く抱き締めて、泣いた。
彩菜は突然の事にきょとんとして、私の顔を覗いていた。
その後は、どうやって病院に行ったのか覚えていない。

気がついたら彩菜を抱えたまま病室に立ち尽くして、必死で医者の説明を聞いていた。

『命に別条はありません』

その台詞を聞いて、安堵のあまり涙が溢れて止まらなくなる。でも、やや躊躇い気味に発せられた次の台詞に、また、目の前が真っ暗になった。

『ただ、重度の脳震盪を起こしていて意識喪失状態にあります。通常ならばもう意識が戻ってもいい頃なのですが…。最悪、目覚めない事も覚悟された方がいいかも知れません』

え?目覚めないって?
嘘。貴方はそんな脆い人じゃなかったでしょ?
お願い、起きてよ!
嘘だと言っていつもの様に笑って!

世界が揺らぐ。ぐらぐらと音を立てて引っ繰り返る様に。
そのまま暗転して、目が覚めたらベッドに寝かされていた。
どうやらあのまま意識を失って倒れたらしい。
 彩菜を抱えたままだったのに。なんて失態。聞いたところによれば、私が倒れる直前に何かを悟って看護婦さんに抱っこをおねだりしたらしく、幸い怪我はなかったという。まだ3歳になったばかりなのに、そう言った勘の鋭さや機転が利くところを見ると、やっぱりあの人の子供なのねと痛感する。
また視界が滲んで来た。もう、体の水分がなくなるまで泣き続けるんだろうなと、思った。

医者の言った通り本当に妖一は目覚めなかった。

頭に包帯が巻いてあるものの、いつでも動き出しそうな穏やかな寝顔。毎朝毎晩見ていたその顔。見る度に切なくなって、見る度に居た堪れなくなった。

 今日でそれも2週間目。もうあの悪魔的な日々は戻って来ないのかしら。そう思いながら花を生けたり着替えを整理しているうちに、穏やかな春の陽気に誘われて、つい眠ってしまったようだった。春眠暁を覚えずなんてよく言ったものね。そう、眠い目を擦って体を起こした。

正直、まだ眠っているんじゃないのかと、思った。上半身を起こして覗く様にこちらを見る鋭い目。陽光を反射するその金髪。

「よう…いち?」

あぁ、また水分がなくなる程泣くのかしら?
無我夢中でしがみついた。なりふり構っていられなかった。それくらい嬉しかった。

なのに。
現実は、どんな犯罪者よりも残酷で、神は、どんな犯罪者よりも罪深いと思った。

「テメェ…誰だ?」

神様、貴方は私が悪魔と契った事に、怨望を抱いてらっしゃるの?