消えた人影 2

 「…旦那様にお話を伺ってみたのですが、恐らく外傷性の逆行性部分健忘だと思われます。つまりは一部の過去の記憶がなくなった記憶喪失状態ですね。旦那様の場合は高校入学直前から事故直後までの記憶が抜け落ちている状態とみて、まず間違いないでしょう…」
その時、ゆっくりと、そして確実に、首を細紐でじわじわ絞められていく様な感覚を、闇に躰が脅かされていく様な感覚を、確かに私の体は、感じとっていたのだった。

記憶喪失?そんな、せっかく目が覚めたのに…!しかも高校入学直前からないだなんて、あの人の中には、私も彩菜も存在していないって事…?

茫然とした私を見て、慌てて医者が言葉を繋いだ。
「記憶が戻らない訳ではありません。ただ明確な時期や方法は定かではないのですが…。思い出す事に痛みを伴う場合もあります。なのでなるべく普段通りに、過去の手掛かりになるものをたくさん見せてあげて下さい」
「……はい…」
返事をするのがやっとだった。戻らない訳ではない。つまり、裏を返せば戻らない事も有り得るという事だ。今まで築いてきた事柄が、関係が、全てなくなるという事だ。それはあまりにも、残酷過ぎた。
記憶がない。
私の記憶もあの子の記憶も、ましてや結婚している事実でさえ覚えている可能性は0に近い。
それは、死に等しいと、静かに静かに、理解した。否、理解せざるを得なかった。拒んだところで抗えない、現実。不確定の期待に縋れる程、強くなかった。
これから、どう接していけばいいのかしら?普段通りってどうやって?私は今までどうやって、あの人と生活していたの?
わからない。
不安が、恐怖が、頭をもたげる意識を苛む。居ても立ってもいられなかった。ふらりと診察室の椅子から立ち上がると、おぼつかない足取りのまま、どうする事も叶わないと知りながら病室へと、向かった。


* * *


 あの女に、引っ掛かりは感じるものの、まるで見覚えがなかった。ここで寝ていた理由も、頭の包帯の理由も、ましてや左薬指の指輪の理由など、考えても到底わかるものではなかった。考えたところで頭の奥の部分が鈍く痛むばかりで、思い出す、という行為自体を拒んでいるかのようだった。
なんだ?何がどうなっている?此所は何処で何故俺は此所に居るのかあの女は何者なのか。あの時、あの女が動揺のあまりに押したナースコールで看護婦が病室に駆け込んできた。そのまま驚愕と安堵が綯い交ぜになった表情でこちらを見、取り乱したあの女の話を聞いた途端厳しい形相で医者を呼びに飛び出して行ってしまった。そのまま呼び出された医者によって質問責めにされた訳だが、まるで意味がわからなかった。
 そこで、今置かれて居る状況を知った。此所は何処で何故俺は此所に居るのかあの女は何者なのか。話は聞いた。だが聞いただけだ。到底理解に至る物ではない。ここは病院で、俺は交通事故にあって、あの女が俺の妻で娘が一人いるなどと身に覚えがない事を現実だと突き付けられて、すぐに理解できる程出来た人間じゃなかった。だが、すぐ病室から抜け出そうと思わなかったのは、俺が住んで居たと思われる場所は今の俺が住んでいる場所ではないと理解したのと、何故か、見ず知らずの女に、微かながらの安堵感を見出だしてしまったからだった。
おかしい。
 高校も大学も卒業した様な気はするのに、中学卒業後までしか思い出せない。 自分自身、これから高校に通う様な気さえする。しかしこの不可思議な記憶をそれ以上探ろうとすると、それを阻むかの様に襲い来る頭痛に忌々し気に舌打ちをした。その時ちょうど、医者の話を聞きに行った女が戻って来た様だった。
何も言わずにベッドの近くの補助椅子に座る。しばらく逡巡した後、疲労と悲哀が混ざりあった顔に無理矢理笑顔を張り付けた女が口を開いた。なんて顔しやがる。
「先生に聞いたらね…もう怪我は完治には至らないものの退院できる程には治ってるんだって。だから…覚えてないかも知れないけど…家に、帰ろう?彩菜も迎えに行かないといけないから…」
「彩菜…俺の娘の名前か?」
一瞬で泣きそうな表情に変わる。
「う、うん、そうよ。この間3歳になったばっかりなんだけどね。あ、もしアレだったらお母さんの所に預けちゃうけど…」
「いや、構わねぇ。会わせろ」
 一瞬驚いた様に目を剥いた後、頷いた。そして退院の手続きをしてくると言い残し、病室を出て行った。現実を、受け入れる必要があった。明らかに食い違った記憶と現実。納得も理解も出来ない物をそのまま放置し続ける事を、俺が到底許せる筈もなかった。
俺にできる事は、今の俺の残滓を、がむしゃらに、拾い集める事だけだった。