消えた人影 8(完結)

 頭が割れるかと思う程の頭痛の直後、暗転。
生きているのか死んでいるのか、浮いているのか沈んでいるのかもわからない世界の中で、何かに強く腕を引かれた。気がした。


 音もなく後ろに立っていたかと思えば、振り返るなり突然抱き寄せられて。それで混乱するなと言う方がおかしかった。それに、何故抱き寄せられたのか理由がわからない。
だって記憶がないんでしょう?私は全くの他人なんでしょう?なのに、どうして?どうして混乱させる様な事するの?
記憶があってもなくても何も貴方は変わらないのね。私は変わってしまったのに。こんな事をするから、私は未だに割り切れないというのに。

期待してしまう。戻ってくるのだと。

 せっかく止まった涙がまた流れ出して、消えた影に縋る様にしがみついてこの人の胸で泣いた。記憶がない癖に仕草も行動も何も変わらないで勝手な事ばかりして。今も昔の様に私の主張に疑問を呈してこうして私を黙らせる。
本当は、拒む筈だったのに。
そうするべきだったのに。
なのに貴方がこんなに温かかったなんて、貴方の側がこんなに落ち着くものだったなんて、今になって思い知らされた様で、もう、涙が止まらなかった。ゆっくりと顎を持ち上げられて、瞼から頬にそって唇を落とされる。抵抗する気は、起きなかった。彼はきっと、それを望んでいないだろうから。だから唇が重なった時もそれは極自然な行為で、その時には私も理由を探る事などやめて、思考が赴くままに動いた。 妖一が事故にあってから、心が休まった事なんてあったかしら?泣いても泣いても決して流れなかった、只管胸に澱んでいたものが流れ出していく様な感覚。

このまま、時間なんて止まってしまえば良かったのに。
何故神様は、何度も何度も私を叩き落とす様な事をなさるのかしら?

悪魔を愛するのが禁忌だと言うのなら
神なんて、いらない。

突然、唇を離された。

不思議に思って顔を覗けば、酷く苦しそうな表情で、強く眼を閉じて何かを耐えている様だった。額には、無数の汗。それで悟った。

頭痛だ。

時々起こるという、頭痛。でも様子がおかしい。今回のは尋常じゃない。確かに血の気が引くのを感じた。妖一が薄く眼を開けて、私の頬に指を沿わす。

「糞…!」

 呟いて、力が抜けた様に後ろに倒れ込む。慌てて支えようとしたけれど大の男を支えきるなんて到底不可能で、せめて頭だけは打たない様にと頭を庇う様にして床に倒れ込んだ。もう二度と眼を覚まさないんじゃないかという、得も言われぬ恐怖と共に。


* * *


痛ぇ。

目の前が点滅する程の痛みに意識を持っていかれて、どこにいるのかわからなくなった。潜る、意識。蘇る、事故の衝撃。
 あぁ、俺は仕事の帰りに事故ったんだったか。確か、突然反対車線からハンドルを切り損ねた車が縁石を乗り越えて突っ込んできて。世界全てがスロー再生。舌打ちをしてハンドルを切るもサックを躱す様には到底いかずに、灰がかった白いガードレールに突っ込んで、 目の前が、真っ暗になった。その瞬間に思ったのは、かつての俺の様に状況の打開案等ではなく、アイツらの顔だった。死ぬ寸前っつーのはこんな感じかと冷めた頭で思っていたのを思い出した。

それから、どれくらいたった?事故の記憶が戻ったと思えば今度は事故後の記憶が曖昧だ。なんだっつーんだ、糞!

恐らくこのウザってぇ痛みと関係してんだろうが、一向にこの不可解な空間から抜ける様な気配は無く、ただ、たゆたうだけ。まだ、目の前は闇で、光なんぞ視界の片隅にも入らねぇ。不思議と漂う孤独感。孤独感なんぞ味わった事なんかなかった癖にな。

やっぱり俺は、死んだのか。

考えても考えても思考が前に進まないこの状態に疲れて、そう結論付けた。ところが、だ。その直後。頬に、何かがぶつかった。瞬間眉間に皺を寄せて、手で、それを確認する。水、だった。
いや、そんな単純なもんじゃねぇな。それと同時に、何かがちらりと見えた。

あぁ、俺はまだ、死んじゃいなかった。
そう確信して、そこに、手を伸ばした。頭痛は、どこかに行っていた。


* * *


眼を開ければ、眼は開いている筈なのに、眼前真暗。
おいおいまだ俺は抜けられてねぇのか。
いや、違う。
「…息ができねぇ」
「え…!きゃっ!よ、よう、いち…!いっ…生きてたの…!?」
「…勝手に殺すな」
顔の上で泣かれてちゃそれこそ窒息死だ馬鹿。
「だっ…だって…!いきなり、倒れて…!」
「…んな辛気臭ぇ顔してんじゃねぇ。目腫れてんじゃねぇか」
「そ…それは…!」
その後は口を噤んで黙っちまった。腫れた目の下には隈が我が物顔で君臨している。酷ぇ顔してやがる。何があった?思考が追いつかない。そういやあ、今日は何日だ?ふと、過ぎた日付に印が書かれたカレンダーを見遣る。
「チッ…事故から3週間以上経ってんじゃねぇか」
「…!」
まもりの眼を驚愕が彩った。
「どうした?」
「妖、一…記憶…は…?」
「あ?」
記憶?何の話だ。話を整理する。
事故。泣き腫らした眼。思い当たらない3週間。
…あぁ、そういう事か。
「あぁ、テメェの目が腫れてんのは、俺のせいか」
「…!ねぇ…!じゃあ……!」
俺の寝間着の裾を強く握って、眼には大粒の涙。
「間違いなく俺は事故前の俺だな」
よせ、それ以上泣くと二目と見られねぇ顔になるぞ。
「わ、私…っどれだけ…どれだけ心配…したか…!」
頭を抱えて胸に押しつけた。
「…だろうな」
「っ……お、おかえ、り…っ!」
「あぁ、ただいま」
 確かに俺は生きている。闇はあるが薄く、孤独の代わりに安堵。胸元にある存在を確認するように抱きながら、ぼんやり栗毛に顔を埋めて、3週間っつーのもまたでけぇ損失だななどと人事の様に考えていた。あぁ、アイツはどうしているだろう。
「…彩菜、元気か?」
「ん…うん」
糞女が一瞬、躊躇った。
「まぁアイツもテメェに似てやがるから元気っつっても空元気だろうがな」
「…わかってるんなら…あ、ごめん…」
糞女が言葉に詰まる。言いてぇ事ならわかってんだよ。
「今週末。出かけっか」
「え?」
「彩菜に行きてぇとこ聞いとけ。休みは取る」
「…!」
3週間なんつーでけぇ穴は早々に埋めとかねぇとな。眼を見開いたもののすぐ相好を崩したのを返事と取って、話を変えた。まぁこっちの方がメインと言えばメインだな。
「それで、だ」
「…?」
「テメェ、いつまで溜め込んどくつもりだ」
「!そんな、溜め込んでなんか」
「隠すな。テメェの嘘なんざ見え見えなんだよ。全部吐いちまえ」
そう言って、まだ抵抗しようと動く女の唇を塞いだ。唇で。
「…ん…っ」
時間を埋める様に、時間を止める様に。時間を、食らう様に。ゆっくり、唇を、放す。若干熱の篭る、女の吐息。
「な…まさか…」
「まぁそういう事デスネ」
糞女の紅潮する顔を尻目に、もう一度、さっきより深い口付けを落とした。空いた時間なんざすぐにでも埋めてやる。なんなら神に反逆して時間を巻き戻したっていい。
俺は悪魔だ。
テメェはその嫁だ。
慈悲やら慈愛なんぞ糞食らえだ。
テメェを一人になんざしてやらねぇ。
逃がしてやるつもりもねぇ。
いつでも道連れにされる心積もりをしておけ。

孤独なんざ、もうたくさんだ。




【蛭魔記憶喪失ネタ】 リクエスト下さった方に捧げます