消えた人影 7

 その日の夜は、奇妙な程静かだった。停滞する、静けさ。静謐が、部屋を彩る。力なくベッドに身を横たえながら、糞ジジイの台詞を思い出していた。
帰る間際の、眉間に深い皺を刻んで吐いた、溜まった泥を掻き出す様な、あの台詞。頭痛を引き起こした、あの台詞。

『記憶は違えど、お前はもう昔のお前じゃねえ。そんな事俺に聞かなくても、解ってんだろ?』

解る訳ねぇだろうと言ってやりたかった。だが何故か、頭痛を代償にしてもそう言い切れない煮え切らねぇ何かが、引っ掛かっていた。
 ベッドの脇に腰掛けて、すぐ側で眠る彩菜の髪に指を泳がせていた。既に全て理解している様な大人びた表情をする、酷く痛々しい表情をするこの子供に対して、最近では罪悪感さえ感じる様になっていた。
理由は知らない。
 そんな彩菜の髪をまるでこうする事が当たり前の様に、違和感なく梳く。不思議に心地よさを感じる一方で、頭の隅に、鈍痛。何かに引っ掛かって取れない様な不快感を僅かながらに感じつつ、尚も指を泳がせる。予想通りに糞ジジイは相変わらずで、その事に薄っすら安堵して振った、堪った仮定。不確定な確証。糞ジジイのリアクション、発言で、大方それらが真実に近かったと悟った。
 だが、予想外の、最後の台詞。それが引き起こした頭痛。ああ、なんだっつうんだ。いい加減にしてくれ。この引っ掛かりも、この頭痛も、毎晩声を押し殺して嗚咽を漏らす、あの女も。
本人は隠しているつもりなのかも知れないが、それらは結局のところ無駄な努力と成り果てて、事実俺は泣いているのを知っている。否、本当はもう、隠し通せていない事などとうに承知なのかも知れない。それでも毎晩、それの繰り返しだった。初めて泣いているのを見たあの日以降、敢えて気付かぬ振りをして過ごした。 だがここ最近、それもままならなくなっていた。
体の奥底で、記憶と思考が噛み合わない様な、まるで誤作動でも起こしているかの様な錯覚を起こして、俺を苛立たせる。
その度に軋む、脳。響く、女の嗚咽。
そっと泳がせた指を柔らかい髪から放して、ゆっくり腰を上げた。足は、自然と女の方に。理由はわからない。ただ、深層心理の赴くままに。
重い足を引き摺って、キッチンまで歩を進める。ドアを音もなく開けば、テーブルに突っ伏して肩を震わせる女の姿。その姿が酷く弱々しく、脆く佩かないものに見えて自然と眉間に皺が寄る。
鈍く、痛む頭。
フラッシュバックする、いつのものともつかない映像。
デジャ・ヴュ。
眼前が歪んで澱んで、足下が崩されて。
それでも足は女へと進む。理由?考えるのも馬鹿馬鹿しい。
理由を付けたところで全て説明できる訳でも、理解できる訳でもないと言うのなら。いっそ、考える行為を放棄して。身の、赴くままに。
そう思考を走らせていたら女がゆっくり顔を上げて軽くかぶりを振る。多少落ち着いた様で、涙を腕で拭ってゆるりと立ち上がった。
俺には、気付いていない。
女はそっと椅子をしまって、振り向いた。俺の存在に気付くよりも早く、俺の腕が、女の腰を、抱いた。
「……っ!よ、妖一…!?お、起きてたんなら声くらい、かけてよ…っ!」
余程驚いたのか、声が若干うわずっている。それでも声が掠れているのがわかる。
「それに、なんで、抱き付いたりするの…?私は貴方にとって、赤の他人、じゃ、ない…!」
額を胸に押し付けて顔を上げようとはせず、だのに手で体を剥そうとする、矛盾した動作。そんな動作を何故か愛しく感じて、腰を抱く腕を強くする。微かに、震える、肩。
「ねぇ…なんで…?なんでよ…!」
「わかんねぇ」
「わかん…ない…って…!そん、な、無責任なこと、いわ、ないで、よ…!」
「理由なんかいるのか?」
「え…?」
「お前が知ってる俺は、一々理由付けてこんなことしてたのか?」
「…!そ、それとこれとは…!」
「じゃあ、嫌なのか?」
「…!」
「少なくとも俺は嫌じゃねぇ。理由なんか、知らねえよ」
「……!」
 抵抗を諦めたのか口を噤んで、その代わり声を上げて、泣く。髪に指を通して、緩やかに梳く。涙が、俺の寝間着を温く濡らしては冷める。そこだけ体温を奪われている筈なのに、不思議と心地よく、暖かかった。過ぎる既視感、来たる頭痛。だがそんなものなど気にも止めずに、女の顔を胸から離して軽く顎を持ち上げた。いい加減赤く腫れた瞼に唇を落として、そのまま涙を掬う。女の溜まりに溜まった苦汁を舐めたかの様に、舌に残る、ざらつき。それさえも愛しく感じて、尚も掬っては、飲み込む。
女は、何も言わない。
碧い眼を軽く閉じて、されるがままにしている。女の腕が、俺の首に回された。その時に、口をついて出た、名。
「…まもり」
「!!」
女が驚愕に眼を剥く。何故名前が出たかなど、理由を探る気など毛頭なく、頭の片隅に引っ掛かっていただけの話だ。そのまま、唇を、まもりの唇に重ねた。その温もりが、感触が、酷く懐かしかった。


その時、だった。
今までで最も酷い、と言っていい程の、頭の痛み。
メキメキと、内側から音を立てて裂ける様な、外側からガンガンと叩き割られる様な痛み、痛み、痛み。
重ねていた唇を引き剥がして必死で呼吸しようともがく。眼の前が白んできた。

息ができねぇ。ヤベェ。

死ぬんじゃないかと思う程の、激痛。俺の突然の変化に驚いた様に顔を覗く。そんな俺が最後に見たものは、驚きから青ざめたものに変わったまもりの顔だった。

糞!こうなるのなら、せめてお前の本当の笑顔を見てからにして欲しかった。