澱んだ金、零れた碧

 結婚してから初めて入ったかもしれない嘗ての自室。ベッドなどの大まかな家財道具はそのまま残されてはいるものの、当然の様に使っていた当時の雰囲気は遺ってはいなかった。痛い程の沈黙、暖まる事も知らない部屋。今は、そんな空間が心地よかった。ただ膝を抱いて、ベッドを背凭れに蹲る。膝と膝の間に顔を埋め、目的もなく思考の海に身を委ねた。ただ傷付ききった心では、思考は悪戯に波に揺られるだけで、結局進む事なくその場に浮いているだけだった。

どうしよう、これから。妖一はきっと、何も思ってないんだろうな。こんなに傷付いているのは、多分、私だけ。

だから、もう。

そこまで考えると、一度枯れた筈の涙がまた溢れて、零れそうになるのを必死に膝に押し付けて耐えた。

辛かった。まだ、好きなのに。こんなにも、愛しているのに。

 そういえば一言だってそんな言葉など言われた事がなかった。そんな事彼は言わない人だと、十分理解していた筈だ。そんな言葉などなくとも、十分解っていた筈だった。だが今は、そんな自信さえも揺らぐ。消えて、亡くなる。傾いで倒れた古木の様にぴくりとも動かず、その場に在るだけで、今は、精一杯だった。

何の音も聞こえない。何の気配も感じない。

そんな時、神経に薄膜が張った様に何の音も拾おうとしなかった耳が、微かに、ほんの微かに空気を震わせた電子音を拾った、気がした。


* * *


まもりの母親は、己の目を疑う程衰弱した娘がよろよろと二階に上がって行ったのを無言で見届けた後、一応の連絡の電話を娘の夫となった男の元へ入れた。常にポーカーフェイス、それに加えて冷酷そうなイメージさえ持たせる彼女の夫は、この状況をどう見るのか。
もし、無反応だったら、その時は嫁にやってしまった事を後悔するのかしら。
一種の賭けとも言えるその行為に至るまでには、幾分かの時間を要した。受話器を手に取り、コールする。響くコール音が一回、二回と、回数を増すごとに急く鼓動によって空気が薄くなった気がして、深く深く、息を吸い込んだ。
その時。
『…はい』
「…!」
何の前触れもなく途切れたコール音に酷く驚いて、一瞬反応が遅れた。
『もしもし?』
「あ…ごめんなさいね。まもりの、母ですけれど」
『!』
息を飲む、音がした。
「まもりの事、なのだけれど」
そう言って、話を切り出した。受話器の向こうの人物は、黙したままだった。


あの電話から、やがて1時間が経つ。それでもまだ、電話の前から動けずにいた。不安が、内に積る。やっぱり、後悔してしまうのかしら。そんな思考を砕く様に突如響いた電子音。
「はい!」
その音にはっと我に帰って、チャイムを鳴らした主に返事をした。ドアに縋る様に慌てて駆け寄り、覗き穴に目を近付けたのと、ドアを開けたのとはほぼ、同時だった。ドアを開けた先に居たのは、呼吸さえ煩わしいとばかりに荒く息をする、彼女の夫の姿だった。


* * *


「…はっ…まもり、いますか…?」
息も絶え絶え、だ。そりゃあ全速力で走るには些か長い距離を止まりもせずに来たのだから、当然と言えば当然だった。
は、我ながら滑稽だ。
今までやりよう筈もなかった行動を突然にやり出した俺を、滑稽と呼ばずに何と言おうか。
ここまできて、自覚する。
意外にも疵を受けたのは、あの女だけじゃなかった。俺が吐いた暴言は予想外にも諸刃の剣で、確実に、俺の内にも疵を残した。その証拠に冷静さを欠いている。車を出せば、こんな疲労を溜めず、克つ遥か昔に着いていた筈なのに。お陰で指先から血は出たままで、挙句あの女の母親に、息切れしたまま女の居場所を尋ねる始末。糞。敬語は、未だに慣れない。突然飛び込んで来た俺に驚愕で眼を剥いたまま、所在を唇が告げた。その眼も髪も、あの女と何も変わらない。
「二階の…あの子の部屋に…」
その言葉が耳に入った途端、体が勝手に動いていた。靴は多分脱いだ筈だ。階段を乱暴に駆け上がって、あの女がいるらしい部屋に向かった。その途中背後から義母の安堵した様な溜め息が、聞こえた気がした。


* * *


 蹲ったまま、動く事を忘れていた。
このまま息をするのも忘れてしまいたい程に、辛かった。現実から切り取られた様に停滞して、ひやりとした空気が躰を覆う、静謐な空間。
その空間を、荒々しい騒音が叩き破った。
がなりたてる様な足音の後ガチャガチャと数度、錠の下ろされたドアノブが乱暴に回ったかと思うと、ドガンッと酷い音を立ててドアが開いた。鍵の存在などまるで無視だ。余りの事に驚いて、顔を上げた。
そこには、冬だというのに汗をかいて乱暴に呼気を吐き出す、最愛の、夫の姿。
こんな姿、アメフト以外でなんて、一度だって見た事がない。何が起きたのか、わからなかった。だから、真剣過ぎる彼の眼に、自分の貌を写すしか、出来なかったのだ。徐に私の体を強く抱いて、そして、息に等しい声で、耳元で、こう言った。
「すまねぇ」
「…!」
 初めて聞いた、詫びの言葉。例え粗雑な言葉でも、他人が聞いたら謝罪だとは思わなくても、私にとっては、十分だった。それ程までに、重い呟きだった。冷えきった腕を、ゆっくりゆっくり時間をかけて、彼の首に回す。言葉も出なかった。きっとこの人は、自分で吐いた言葉の癖に、自分も傷付いたんだろう。こんなところで、意外な一面に触れた。だから、こんなになっても、愛しいと思ってしまうのかもしれない。少しずつ、少しずつ、躰が暖められていく。自信が、戻っていく。あれきり、妖一は何も喋らない。その代わりに、腕に力が籠っていく。それでも良かった。傍に、居てくれるのなら。だから彼が言葉を紡がないのなら、紡げないのなら、私が、代わりに。
そっと耳元に、唇を寄せて。
「…あいしてる」
それに答えるかの様に、頭を強く、抱えられた。
今零れた涙は、それとは思えない程に、暖かかった。