透けた碧、驕れる金

ガシャンッ

 耳元を、グラスが掠めた。その直後、背後で破裂音。すぐ目の前には、興奮で頬を紅潮させ肩で必死に呼吸する女。瞳に透けて碧くなった涙を溜めて。蛭魔は冷めた眼でその光景を眺めながら、喧嘩の原因はなんだったか記憶を巡らせた。
思い至らない。
否、有り過ぎてきっかけが霞んでいるだけか。どうせまた、下らない事か。
「口で敵わなきゃ暴力に走るのかテメェは」
「だったら…なんであんなこと言うのよっ…!」
 狂犬の様に牙を剥いて吠えかかる女に冷えきった一瞥をくれながら、蛭魔は胸の内で自嘲気味に嗤った。きっかけはきっと、些細な事。それが口論の途中で燻っていた不満に火を着けただけ。その末路がこれか、と、冷ややかに嗤う。冷めきった男と対称的に過熱して冷める事を忘れた女は、その震える形のよい唇をきつく噛み締めて、絞り出す様に、言葉を吐き出した。
「私、出て行くから…!」
勢いに任せて言ったのだと、瞬時に判断がついた。
「あぁそうしろ」
 だがそれは蛭魔に限った話で、熱しきった今のまもりにはそう判断できよう筈もなかった。だから、蛭魔の予想を裏切って、その一言でまもりは直ぐ実行に移したのだ。何を言う事もなく勢い任せに踵を返して、寝室に置いてある気に入りのハンドバッグをひったくる様に持った。仕上げに、リビングにかけてあったコートを剥ぐ様に取って。そのまま、バタバタと荒い足音を立てて、躊躇いもせずに家を飛び出した。 乱暴なドアの開閉音の後に遺ったのは、女の香りと、涙の跡。
「…糞」
誰もいなくなった虚ろな空間に向かって、眉間にきつく皺を寄せて誰にとも無く呟いた。
犬歯が食い込む程噛み締めた唇には、薄ら血が滲んで。


* * *


 無理矢理羽織ったコートの胸元をしがみつく様に握り締めて、まもりは走った。
家に鍵をかけるのを忘れたけれど、知らない。洗濯物を取り込むのを忘れたけれど、知らない。妖一が私の事をどう思っているかなんて、知らない。
体を横切る風に振り落とされて、涙が球となって後方に散る。それでも吹き出た感情の様に涙も吹き出る事を止めず、少しずつ体温を奪う事も止めないのだった。走り疲れて減速しだした頃になってやっと、頬が冷えきっている事に気が付いた。酸欠状態になってぼやけた思考を巡らせて、ここまで大袈裟になった原因を探った。次第に晴れていく脳。それでもやはり、思い出せなかった。
きっと知らないところで不満が溜まってたんだろうな。
その実些細な事から始まった口論は、知らず知らずのうちに互いの欠点を罵り合う事にすり変わっていて、終いには感情が感情を捩じ伏せる結果で終わった。今まで感情をぶつけ合ってこそお互いが成長できるんだと、思っていたのに。
収穫など、何もなかった。
俯いて炉端の石を蹴りながら、そう結論付けた。冷静に話し合うなんて、もう無理だ。直前の、あの一言を思い出す。

『親切の安売りなんか誰も求めちゃいねぇんだよ。偽善となんら変わんねぇ』

気が付いたら、手元のグラスを投げ付けていた。何の話からそうなったのかわからない。でもあの一言は純粋に本音なのだろうというのはわかった。
私の真意なんて、あの人は結局何もわかってくれてはいなかったのね。むしろ、独り善がりだったのかしら。やっぱり、赤の他人が理解し合うなんて、無理だったんだ。

 もしこれが普段のまもりなら、冷静に蛭魔の台詞を受け取って自身で噛み砕いていた筈だ。だが、追い詰められた意識では、精神では、いくら聡明な人物と言えど客観的に物事を計るのは困難だ。 冷静に台詞の意味を解す事など論外で。今のまもりは、何を基準にするべきかも、自分の意見の正否さえも判断できずにいた。得体の知れない虚脱感で、身体が重い。ハンドバッグも羽織ったコートも重く感じる鉛の様な身体を引き摺って、当てもなく街を彷徨った。
だが実際は、自然と実家の方向へ足が向いていた。
帰巣本能と言うべきか、特に意識をするでもなく、無意識に、だった。


* * *


「…はい、そうですか。わかりました…いえ、大丈夫です」
 使い慣れない敬語で会話を終えて、受話器を置く。電話の相手は義母で、突然帰って来たまもりの尋常ではない様子に驚いて電話をかけたのだと言う。本人には、当然無断だった。まもりの母もまた、聡明な人だ。聞けば止められる事くらい容易に予想がついたのだろう。
その義母に聞いたまもりの様子は、蛭魔の想像以上に酷いものだった。
 始めは、帰って来た気配すら感じなかったのだと、そう言っていた。物音も立てず、何も喋らず、気が付いたら玄関に座り尽くしていたのだと。瞼は泣き腫らして赤くなり、青ざめた頬は乾いた涙の跡で荒れていた。驚いて名を呼んだ母親の声にゆっくり顔を上げたまもりの、碧く澄んだ筈の瞳は 、不信と悲哀でくすんで見えたと、そう、言ったのだ。受話器の前に立ち尽くして、数時間前の情景を思い起こす。
あんな顔見たのは、初めてかも知れねぇな。
傷付いた表情と言うには些か酷過ぎた貌。冷静なつもりでいたくせに、実際判断能力など無きに等しかった事に、今更ながらに気が付いた。
「…チッ」
 苦味しか残らない舌打ちを吐いて、乱暴に踵を返す。その時、視界の端にガラス片。何故リビングにそんなものが落ちているのか一瞬わからずに、眉を顰めた。だがそれが、直ぐにまもりが投げ付けたグラスの残骸だと言う答えに行き着いて、更に眉を顰める事になる。きつく眉根を寄せたまま、忌々しげにガラス片に近寄って、感情の残滓を拾い集めた。義母が視たまもりの様子が、脳裏を過ぎる。謝るつもりはない。それは仮に原因がわからずとも間違った事を言ったとは思っていないからであり、そんな上辺だけの謝罪が必要だとも思っていなかったからだ。
だが。

ここまで後腐れが悪ぃのも初めて、だな。

思考を過去に潜らせて、記憶を探る。その時、僅か数時間前のあの貌が、鮮明過ぎる程に、眼球に灼き付いて、
「っ……!」
 べたりと張り付く様に中枢を毒した罪悪感と、心臓が凍て付く様な冷えを伴った喪失感に意識を持っていかれて、知らぬ間に、残滓が指を朱に染め上げていた。不自然に白くなった指に鮮やか過ぎる緋(あか)が水泡を創って、そして破裂。それを拭き取る事もせず、ただ漫然と、不快な温もりを持って伝い流れる緋を見た。
流れる血液、止まった空気。些細な怪我でさえ飛んで来る女はいない。自然な白さを持ったあの指の女は、今はいない。緋より自然な鮮やかさを持ったあの笑顔の女は、もう。
「………糞っ!!」
苛立たしげに思考を覆う澱んだ靄を舌打ちで追い払って、誰にともつかない悪態を吐くなり乱暴に立ち上がった。伝う血を熱ごと服に擦りつけて、冷めきった空気を砕く様にかけてあったコートを奪って走り出した。




【大喧嘩してまもりが実家に帰って離婚危機】 葡萄様に捧げます