理想と現実 前編

 極日常的にテレビの中で巻き起こる非現実的な世界に私は身を置いていて、常に 人形と大差ない扱いを受けて生活している。常に笑顔とか常に穏やかとかイメージに於いては清廉潔白とか。芸能界に、特にアイドルとして身を置く以上そういった扱いは至極当然で、普通なら更にそれらに加えて湿気を帯びた嫌がらせやら熱の籠ったセクハラやらが付いてくる。それに比べれば私は恵まれていて、悪魔的なマネージャーのお陰で適度な休息と、芸能界にありがちなそれらには割合縁遠い環境にいる。仮に手段は どうであれ。だけれど当然当人の意識も少なからず必要で、例え悪魔なマネージャーのお陰で内輪のごたごたに巻き込まれずに済むとはいえど一旦仕事から離れれば自分の身は自分で守るしかないのだ。
つまりはきちんと意識を持って、警戒すべきと言う事。
なのに、そこまでわかっていながら今回の自分の行動は迂闊としか言い様がなかった。アイドルという立場上当然スキャンダルは御法度だし、特に異性問題などは禁忌と言ってもいい程なのだ。
特に今波に乗っているアイドルとなれば格好の餌食になる。散々気をつけろと言われ続けたのにも関わらず。そんな自分の浅はかさを呪ったのは、番組収録前の楽屋の中だった。


* * *


「なに、これ…」

顔面蒼白。その字の如く顔色を染めて、まもりは無惨に放り出された週刊誌を手に取った。

『熱愛発覚!深夜お忍びデート!お相手は高校時代の後輩!』

 表紙に此見よがしに大きく、更には無遠慮に踊る文字を見て、絶句した。心当たりは、あった。恐る恐る中を改めれば案の定、僅か一週間前の光景が確かにそこにあった。一週間前の深夜、偶然にもコンビニの前で高校時代の後輩だった十文字に会ったのだ。卒業以来久しい再会で、喜びの余り警戒心が薄れたのかそのまま一緒に駅まで歩いた。
そこを、撮られたのだ。
ただの友人と言える距離で歩いていたのにも関わらず、うまくアングルを変えてまるで寄り添っている様に撮られている。まもりは当時の光景を思い出して、酷く後悔した。確かに一緒に歩いたし、彼の事は嫌いではない。だが恋とか愛とかそんな類いの感情ではないのだ。それなのに、鬼の首でも取ったかの様に面白可笑しく書き殴り、そこから更に旨い物に有 り付こうと肉の残骸を貪るハイエナの様にマスコミが群がる。

やっと得心がいった。

 いつも笑顔で送ってくれる運転手の笑みがぎこちなかった訳も、テレビ局の前にマスコミが黒山の人だかりを築いていた訳も、マネージャーが不機嫌そうに、一言も口を聞いてくれなかった訳も。まもりは週刊誌を握り締めたまま絶望に暮れてその場にへたりこんだ。この業界に身を置く以上一度二度この様な事もあるだろうと一応覚悟はしていたが、想像以上に厳しかった。同時に、覚悟の甘さを思い知らされた。

これから私はどうなるのだろう?仕事は?私生活は?

 何かが決壊した様に吹き出した不安や疑念が、風よりも疾く、砂よりも重く充満し、降り積もって、恐怖を形作っていく。何よりも恐ろしかったのは、マネージャー―彼―に、誤解される事だった。あぁなんでもっと早く気が付かなかったんだろう。朝のうちに気付いていればまだ弁解もできたのに。私が想っているのは貴方だけだと言えたのに。自分が全く気が付かなかったせいで、誤解されるきっかけを作ってしまった自分自身が酷く憎々しかった。瞳に涙が沸き起こり、音もなく、限度も知れずに流れ続けた。極度の自己嫌悪と極度の恐怖の余りに半ば放心状態だった私は、誰かが楽屋に入って来た事に、全く気が付かなかった。

ガチャッ

「!」
突然背後で響いた鍵をかけた音に振り向いて、そのまま、硬直。背中を、冷たい物が這った様な気がした。
「ヒル魔…君…」
名を呼ばれた本人は特に答える事もせず、気怠そうに腕を組みドアに背を預けて、大して興味もなさそうな眼をまもりに向けた。
眼の色は、怒りと侮蔑で酷く濁った黒。
 まもりはその眼を見て震え上がった。こんな眼は見た事がなかった。例えどんな失敗を侵そうとも怒る事は数あれど、こんな完全なる拒絶を孕んだ眼で見られた事はなかったから、まもりは完全に誤解されていると確信し、同時に自分の愚かさに死んでしまいたいとさえ思った。床にへたりこんだまま、まるで動く気配を見せないまもりにあからさまな舌打ちをして、蛭魔は面倒臭そうに口を開いた。

「今日の撮影は中止だ」
「……え…?」
「テメェのせいで局は大混乱だ。資材も運べなきゃ人も入れねぇ。そんなんで撮影なんざ出来る訳ねぇだろ」
「………!!」
絶句。
 まさか自分の不注意で、ここまで事が大きくなるとは思いもしなかった。大きく眼を見開いて、静かに落ち行く涙を両手で受け止め、嗚咽を堪えて、泣いた。泣いたところでどうしようもない事など重々承知で、それでも尚耐えられずに、涙を零し続けた。謝りたいのに、言葉さえまともに紡げず無意味な音となって出ては消える。

カツン
一歩、踵が鳴る音がしてビクリと肩が跳ねた。
カツン。
一歩。
カツン。
また一歩。
怖い。恐い。

 恐怖に取り憑かれて顔が上げられない。すぐ目の前で、屈んだ気配がした。心臓が、今にも破裂しそうな勢いで跳ねる。冷や汗が体を覆う。非難されるのが恐かった。嫌われるのが恐かった。突き放されるのが、恐かった。突然左手を掴まれて、反射的に力が入る。剥されるのを拒もうと力をいれたにも関わらず、まるで関係ないという様に容易く引き剥された。鋭い眼が、碧を射抜く。まもりは息をするのも忘れて、ただそれを見つめるしか出来なかった。否、見つめる事しか赦されなかったのだ。容赦無く吐かれる、言葉。
「どうだった?俺以外の男は」
明らかに週刊誌の記事を真実とした上で出された問いに、まるで壊れた人形の様に只管首を振った。
「違う…の…!あれは偶然、会っただけなのよ…!十文字君とは…駅で別れたんだから…!」
掠れて出ない声を絞り出して言う。だが抵抗も虚しく蛭魔の眼の濁った色は、少しも晴れる事をしない。
「ほぉ。相手が糞長男じゃなけりゃまだその言い分も通ったかも知れねぇがな」
「そんな…!」
蛭魔は長い指でまもりの顎を掴むと乱暴に上を向かせた。
「じゃあ何故一緒に帰ったりしたんだ?同じ高校出身、況してや後輩とくりゃ面白がって書かれるに決まってんだろ。それとも何か?そのまま噂になってくっついちまおうって魂胆か?」
「違う!酷いわ!確かに私が悪いけれどでも…!そんな言い方…!」
蛭魔の突き放した言い様に身を切り刻まれた様な錯覚を覚えて、涙を堪えるのも忘れて叫んだ。いくらなんでも、これは。耐えず涙を流しながら叫ぶまもりを傍観者の様に眺めて、顔を寄せた。唇が触れる、ギリギリの距離。
「だったら、これに懲りたら二度と、迂闊な真似はするな」
細やかに、だが抗えない様な口調で言った。そのまま、食らう様に唇を塞がれた。