4.横たわる鈍色

 いくら春が近付いたとはいえ、2月の朝はまだまだ寒い。 いつもより入念にストレッチをして、ラダーで体を温めながら白い息を吐く。 足を忙しなく動かしながら部室の方に目をやって、先程消えた後ろ姿を思った。
 土曜日までは平素と変わらなかったのに、今朝会ったらやや顔色が悪かった。目の下には隈までできている。 この二日間に何かあったのだろうか。日曜日は確か、手芸洋品店に行った筈で、 昨日は部活には来ていなかったから受験勉強でもしていたのだろう。 比較的月曜日は顔を出さない事が多かったから、さして気にもしていなかったのだけど。
 土曜日も昨日も鈴音がいつにも増してはしゃいでいたのを思い出す。 土曜日にまもり姉ちゃんとバレンタインの話で盛り上がったらしく、目をキラキラさせていた。 日曜日に毛糸を買いに行くこと、マフラーを編もうとしていること、それから、誰に渡そうとしているかってこと。 嬉々として話す鈴音からそれを聞いて嬉しく思った。
部活に入る前から―いや、入った後もずっと、心配ばかりかけてきた。 自分の事は犠牲にして、僕の事ばかり時間を、気持ちを割かせてきた。 周りが行き過ぎだと思っていても、結局僕自身が庇護から抜け出せなかったのだ。居心地もよかったし、何より楽だった。 障害物も、困難も、ぶつかる前に全て取り払ってくれる。シェルターを着て歩いている様なものだった。
そのシェルターを砕いたのはヒル魔さんで、まもり姉ちゃんをシェルターから人に戻したのもヒル魔さんだった。 口は悪い…いやかなり悪いけれど、言っている事は的を射ていて目を覚まさせるには十分だった。 害のない平凡で安穏とした、ぬるま湯の様な幻想から。
だから、鈴音とバレンタインの話で盛り上がっていたときは素直に嬉しかったのだ。 やっと、彼女自身の時間を彼女の手で掴むことができるのだから。 鈍い彼女の事だから、まだ自分の気持ちには気付いていないかもしれない。 でもそれでも、昔のまもり姉ちゃんに比べたら大きな一歩だった。 昨日の話だと、ヒル魔さんも意外に悪い気はしてないみたいだったし、期待できるかもと思っていたのに。

なのに、今はどうだろう。思っていたのとは様子が違った。

 単にマフラーを編むのに夢中になって寝不足なだけかもしれない。でも何となく、暗いような気もする。 努めて明るく振る舞っている様だけど、なんとなく笑顔がひきつって見えるし、何よりヒル魔さんと目を合わさない。 アメフト部に入る前だって、もう少し目は合わせてた気はする。ただし、すごい剣幕だったけれど。
アメフト部に入ってから…いや、特に最近はよく会話をしていた様に見えた。 近過ぎも遠過ぎもしないちょうどいい距離で、雰囲気もよかった。 たぶん。まぁ鈴音がそれを見てアンテナが千切れそうなくらい伸ばしていたから間違いはなさそうだけど。
ラダーを一通り終えて片付けていると、三角コーンを持ったマネージャー達が次の練習の準備をしていた。 まもり姉ちゃんはいつの間にか部室から出てきていて、他のマネージャー達とは距離を取ってバインダーを抱えていた。 ただ、様子がおかしい。何をする訳でもなく、ただ漠然と、心ここにあらずといった体で地面を眺めているのだ。 両足を棒のように突っ立てたまま呆然とする様は、活発に動き回る部活中の光景とはとても思えない。

「まもり姉ちゃん…?」

 思わずラダーを拾う手を止めて見ていると、ヒル魔さんが姉ちゃんを呼んでいた。 いつもならすぐに返事を返す筈なのに、無反応だ。まるで彼女だけ時間が止まっているみたいに。 何度か呼んで痺れを切らしたのかザカザカ砂を蹴りながら大股で近付いて、それから。 ヒル魔さんの指が姉ちゃんの肩に触れるか触れないか、というところで、突然姉ちゃんの体が電気が走った様にびくりと突っ張って、 手にしていたバインダーを盛大に取り落としてしまった。地面にぶつかって割れた音が響く。 さすがに驚いたのか、ヒル魔さんは目を見開いて、持ち上げた腕はそのまま、虚しく漂っている。 我に返った姉ちゃんは、矢継ぎ早に二言三言話して、ヒル魔さんの返事も待たずにまた部室に戻ってしまった。 茫然と後ろ姿を見送りながら、ここでやっとヒル魔さんは空虚な腕を下ろした。 取り残されたヒル魔さんは無惨に散らばった破片をジトリと睨め付けて、 近くのマネージャーに指示をしてその場からいなくなった。
何か、見てはいけないものを見てしまった気がする。 衝撃が強すぎて、拾ったラダーを落としてしまった。 僕が会わなかったこの二日の間に何が起こったのか。考えようとはしたものの、モン太から呼ばれた声であっという間に霧散した。 僕が考えたところで、あの二人の何かが解決する訳ないか。でも、今の二人は鈴音の話のどれにも当てはまらない。 そうだ、放課後の部活の時に聞いてみよう。何かわかるかもしれない。でも、結局それは叶わなかった。


でもそうしたかったのに、彼女はその日部活に来なかった。
僕の胸中のモヤモヤと燻った不安は、依然として残ったままだった。