第二曲:地で蠢く狂想曲

真っ暗な部屋。
真っ黒の遮光カーテン。
 その合わせ目から覗かせた単眼の望遠鏡を、必死の形相で覗く一人の男。室内には始終クラシックがかけられて、家具に嵌まった硝子が、アルミの部品が、音に共鳴して不気味な音をたてる程の大音響で響いていた。男はカーテンの隙間に穿たれた穴から自分の「世界」を覗いた。その表情は、恍惚に近い笑みで湛えられて、黒く歪む。カチカチと、望遠鏡の調整音がboleroの合間に挟まった。向かいのマンションの一室にピントを合わせて、そこでちらつく人影を獲物を狙う獣の如く追いまわす。その動作の後、一層、笑みが色濃く。

今日も、キミは美しい貌をしているね。
ボクがあげた右手の指輪は、気に入ってくれたかな?

身勝手な解釈で踊る鼓動。空いている足で、拍を刻む。手慣れた様子で、ピントを調節し続けて。時折口にする熟した紅が、グラスの中でまるで奇怪な生物の様に蠢いた。

キミの表情、キミの動き、全て、逃してなるものか。

スピーカーから溢れ出る、フィナーレへと確実に歩む響(おと)は、フルオーケストラ によって一際厚く主題を刻んでいく。続くクレッシェンド、轟くフォルティッシモ。上がるテンション、速くなる息。

さあいよいよ、Codaに突入だ。聖母マリアの様なキミの慈愛の眼差しで、ボクの深層を浄化してくれ。

 最早狂喜しか映さなくなった男の眼は、だがしかしCodaに突入した途端驚愕に見開かれ、微動だにしなくなった。堅実に拍を刻んでいた足も、手際よくピントを合わせていた手も、実に美味そうにワインを舐め取っていた舌も、貌を形作っていた笑顔でさえも、一瞬にして、凍った。最早空間で唯一動いているのは、聞き手のいなくなったRavelだけだ。それでさえも、誰の許可なく幕を閉じた。続いて流れるは、場にそぐわない穏やかさを持った宮廷舞曲だ。男が、小刻みに震える。途端異常な程に床を踏み締め望遠鏡を殴り付けた。ガシャンと無遠慮な音が端正に組み立てられたパヴァーヌの行く手を妨害して、それでも尚我関せずとばかりにワイングラスを握り潰す。
だらだらと滴り落ち無音のまま床に広がる粘着質な赤は、男の心理を表すのには 十分過ぎるであろう。
打ち震える男の足下に、無惨に散らばった宴の後。

床に転がる残骸、その叩き壊される直前まで虚ろな単眼が写していたのは、男が己の物だと信じて止まなかった桜色の唇が、自分以外のそれと重なり合うシーンだった。

血走った男の眼は、最早現実など映してはいない。