6.狡猾な丼鼠

 今日は空っ風が強い。窓がガタガタ鳴って、時々サッシが擦れる音が混じる。 頬杖をつきながらぼんやり外を眺めると、校庭の木がザワザワ揺れて、ただでさえ少ない葉が千切れて飛んでいく。 穏やかじゃない。まるで自分の心中を覗き見ている様だ。
 渡り廊下に目をやると、移動教室だったのかゾロゾロと連なって人が歩いているのが見えた。 何の気なしに眺めていた筈なのに、気が付けば視線がたった一人を追っていた。 大勢人はいるのに何故か目に入るのはただ一人だけ、派手な金髪を遠慮なく風で揺らす男。 そして丁度、一際強い風が吹き付けた時に男は首をひゅっと縮めて寒気に耐えた。 そういえば寒い日は必ずポケットに手を突っ込んでいたし、風が吹く度に舌打ちをしていた。 寒いのが苦手なクセに首回りが寒そうだと思った。

…あ、そうか。だから、私は。

 ここにきてやっと、蛭魔が寒いのが苦手だとわかるくらい目で追っていた事に気が付いた。 だから、マフラーを渡そうなんて考えたのだ。
 あの日以来、部活には行っていなかった。会うのが怖い。視線が絡むのが怖い。触れられるのが、怖い。 ぼんやりしていた感情の名前がやっとわかったのに、ちっとも気持ちが落ち着かなかった。 淡い恋心なんかより、色濃い恐怖が勝る。自分が自分じゃなくなるような、また同じ轍を踏みそうな。
 無意識に存在を目で追ってしまう程、心に巣食っている。 だから尚更、セナの様に盲目的に追ってしまうのか、不安になる。
 ただ単に逃げているだけだということは薄々勘付いている。 面と向かって「あの女の人は誰?」と、ただ聞くだけなのだ。それだけで粗方の問題は片付くのだが、 もし、親密な関係であると蛭魔の口が紡いだら。大きなお世話だと突き放されたら。 不安定な足場が崩れて奈落に突き落とされるような気がして、怖いのだ。
 いつからこんなに臆病になったのだろう。何をするにも恐怖が纏わりつくなんて。心配する事が、 気遣いが行き過ぎる気がして怯えているなんて。不安に押されて空気が肺から押し出される。 固まった様な呼気を吐き出しても、全くスッキリしない。

「ねぇ」

受験が近い。でもそれどころじゃない。だって合格すれば最低あと4年は蛭魔と顔を会わせる可能性がある。

「ねぇ、まも」

今から進路を変えるなんて不可能だし、いくら志望学部が違うとはいえ全く会わないのも不可能だろう。

「ちょっと」

卒業前になんとかしないといけないなぁ。でも、どうしたらいいんだろう。 考えれば考えるほど、底無し沼に嵌まって行く様だ。
それに今日は、一つ試練がある。それは…

「ちょっと!まもってば!」
「え?あ、うん、と、ごめん。なに?」

 唐突に声が耳に飛び込んできて思考が霧散する。いつから話しかけられていたのか、 向かいに立っていた友人が眉をつり上げてこちらを睨んでいた。どうやら、長いこと無視してしまったらしい。

「どうしちゃったの?最近ずっとボーっとしてるけど」
「ごめんね、ちょっと、考えることが多くて」

本当は一人の事だけ考えているのだが、それは伏せておく。

「…気を付けてよね。最近怪しい連中がウロウロしてるらしいから」
「怪しい連中?」
「はぁ~ほんとにまーったく聞いてなかったのね!最近泥門の周りで何かしてるヤツらがいるって話よ!」
「何かって?」
「話しかけてきたり写真撮ったりしてるらしいの!しかも女子ばっかり!」
「え、そうなの?全然気付かなかった…。警察には連絡したのかな」
「したみたいだよ。でもまだ決定打がなくて捕まらないんだって。まも気を付けてよ!最近よくぼーっとしてるから!」
「ははは…うん、気を付けるね」

 勢いよく話す友人に乾いた笑いを返しながら、どこか上の空で話を聞いていた。 今は、正直それどころじゃない。見えない何かに怯えるより、見えている問題を解決する方が先だった。 話が終わって去っていく友人の背を小さい溜め息で見送って、足元でカサリと乾いた音を立てるそれを見た。

そう、これが試練。
今日は、バレンタインデーだ。


 澄みの様に紺青が溜まって、オレンジが沈殿していく。星も少し顔を出しているが輝きは薄い。 でも、もう、直ぐに夜がやって来る。澄んだ空気とは裏腹に、澱んだ気配を携えて。

「おい、ヒル魔」

まだ仄かに甘い香りを残した部室で、低く静かに、だが鋭く片耳にイヤホンをしてパソコンを叩く男を呼んだ。 3年になってからは部活には出ていなかったが、今日だけは例外だった。

「なんだ、糞ジジイ」
「何があった」
「何の事だ」
「姉崎だ」
「それがどうした」

興味があるのかないのか、どっち付かずの相槌にモヤモヤしながら言葉を続ける。

「今日何か貰える予定じゃなかったのか」
「貰っただろうが」

ヒル魔は細長い指先で、素っ気なくそれを弾く。弾かれたミントガムは少し向きを変えただけだ。

「そんなんじゃねぇ。鈴音に聞いたぞ」

小さい舌打ちが聞こえた気がしたが、構わず続ける。

「関係良好。満更でもなかったヤツが、バレンタインに貰える筈のモンが突然貰えなくなった。何もない訳ないだろう」
「糞チアも随分口が軽いな。糞チビに一発ぶちかましてやるか。テメェの躾が足りねぇってなぁ」
「はぐらかすな。何があったか俺には心当たりがある。当ててやろうか?」
「……今はそれどころじゃねぇ」
「…どういうことだ」

 顎でパソコンのディスプレイを見るように促して、トントンと爪で画面を叩く。 そこにはチャットと思しきやり取りがつらつらと綴られていた。真っ黒な画面に白い文字がのたうっていて、気味が悪い。

「学校裏サイトってやつか?」
「ああ。どこにでもある下らねぇサイトだが、ここだけおかしなことになってやがる」

指で示された所に目をやると、一つの質問がきっかけで、 それまで間延びしたやり取りが続いていたのが嘘のように異様なペースでコメントが追加されている。

「…3年、アメフト部、元キャプテン、噂、マネージャー、恋人…おい、なんだこりゃ…何が起こってる」

たった一つの投稿を皮切りに、どんどんコメントが膨らんでいく。
この内容が、目の前の男と元マネージャーを指していることは考えなくてもわかる。

『デビルバッツかっこいいですよね!面白い話あったら教えてください!』

どこにでも転がっている味気もそっ気もない書き込みから何がどうなってこんなことになっているのか、 ムサシには皆目見当がつかなかった。

「最初のこのつまんねぇ書き込みはエサだ」
「エサ?」
「害がないフリをして、食い付くのをまってやがる。一人食い付けば興味本位で会話に混ざるヤツが出てくる。 後はそいつらから普通の会話を装って情報を釣り上げるだけだ」

ありがちな集団心理ってやつだな。そう苦々しげに言い放って、ガムを口に放り込む。
実際、やり取りは初めの投稿主が数人の外野に質問を繰り返すことで成り立っていた。 確かに、「エサ」と言うのは間違いないのだろう。

「お前の言う通りだとして、目的はなんだ。もうすぐ卒業するお前と姉崎の話を今更集めてどうする」

 蛭魔は目を眇めてガムを膨らますと、背もたれにぐいと体重を預けて宙を眺めた。 どこか遠くを眺めるような、珍しく力のない眼差しで。

「テメェ、さっき心当たりがあるって言ったな」
「あ?………あぁ、言ったな。急に何だ」
「原因はそれだ。これも、糞マネの事もな」
「…おい、どういうことだ。まさか…本当か?」

心当たり。あまり考えたくなかった可能性だが、瞬きする間にここまで拗れるとしたら、 ソレしかないだろうと思ってはいた。そしてこの男は、それを認めている。

「…バレたのか見られたのかどっちだ」
「見られたな」
「話したのか」
「何をだ」
「…お前のソレ、だ」
「言うかよ。『ボクのコレは病気みたいなモノなんです~』とかいや終わるのか?」
「自覚はあるのか」
「一応な」
「…最近は落ち着いてただろうが」
「………」

 蛭魔のソレは虚無感を埋める様に、孤独を誤魔化す様に繰り返された。 後腐れない相手を器用に見つけては行為に及んで、何食わぬ顔で日常に戻る。
 初めのうちはムサシも栗田もまるで自傷行為の様なソレを止めも咎めもしたが、次第に言及しなくなった。 言っても無駄だったし、自分でも扱い方が分からないようだったからだ。 ただの愛情不足だと言い切るには安易な気がするし、存在意義を探っているなんて高尚なものでもない。 孤独を往なしている、と言うのが一番しっくり来るかもしれない。
 高校でアメフト部を作って…否、メンバーが集まり始めた頃からソレは鳴りを潜めていた。 特にまもりが加わりキャプテンとマネージャーとして正しく機能し出した頃からは、嘘のようにソレが無くなったのだ。
 蛭魔をよく知る二人は、その様を見て心の底から安堵した。虚無感を空虚な行為で埋めたって埋まる筈はないし、 往なした孤独感はすぐに戻ってくる。
 そんな時に、他の追随を許さない頭脳を持ち、それ故に孤立しがちな男と渡り合える異性が現れた。
加えて彼女の持ち前の正義感の強さか世話焼き気質の賜物か、無意識の内に男のそれらを埋めて淵から引き摺り出したのだ。 ところがそんな安堵は束の間だったらしい。知らぬ間にソレが蒸し返して、更に拗らせていたからだ。 しかも、状況は最悪だ。一番見られてはいけない相手に、見られてしまったのだから。

「何でそんな事になった」
「…」
「態とか」
「……わからねぇ」
「わからねぇ事なんかあるか。今まで一度だって意図の無い事をしなかったお前が『わからねぇ』事をする筈がねえだろう」
「…」

 ムサシは腹の奥底から苛立ちが沸き起こっている事に気が付いた。 イライラとかムカムカとかそんな言葉じゃ収まらないくらい噴き上がっている。 らしくもなく『わからない』行動で己の理解者を傷付けた無神経さに、 そして何故そんな事をしたのか理由にさえ向き合おうとしない消極さに胸ぐらを掴みそうになった。 ギリリと噛み締めた奥歯が軋む。

「わかってんだろうが」
「何がだ」
「姉崎に惚れてるんだろう」
「ケッ、くだらねぇことほざくんじゃねぇ」
「いつまで逃げるつもりだ」
「逃げてねぇ」
「ならなんでぶり返した。なんで隠しきらなかったんだ。正面きって言うのが嫌だから、 ガキみたいに気付いて欲しかったのか?」
「煩ぇ」
「感情を持て余してるんだろう。ソレで発散してるつもりだろうがそうには見えねぇ」
「黙れ」
「黙るかよ。挙げ句厄介事に姉崎を巻き込んで指咥えて見てるんだろうが。いい加減自覚しろよ。 お前を見てると腹が立つんだよ」

言い終わるか否かというところで、蛭魔の側にあった椅子が盛大な音をあげて転がった。 昂る感情を誤魔化す様に蹴り上げたのだ。こんなことは、常に冷静に知略を巡らし続けるこの男には珍しかった。 いや、今まで無かったと言ってもいい。

「解ったような口聞いてんじゃねぇぞ」
「じゃあ解ってないフリするんじゃねぇよ」

鋭利すぎる犬歯を剥き出しにして射殺す様な視線をムサシに向けて、蛭魔が口を開こうとした時、 勢いよく部室の扉が開いた。扉が閉まる余地もないまま巨体が転がり込んでくる。

「ヒル魔ぁ~なんとか空けといてもらったよぉ~」

なんとも気の抜けた声に勢いが削がれて、蛭魔は投げやりにガムをゴミ箱へ吐き捨てた。 ふう、と一つ息を吐くと頭が冴えて、異常に滾っていた血液が鎮まる様だった。

「…糞チアには話つけたのか」
「うん!いつでも動けるようにしておいてくれるって!」

今までの緊張感はなんだったのか、急に入ってきた訳知り風の栗田に面食らって、なんとか言葉を絞り出した。

「……おい待て、お前ら何の話をしてるんだ」
「好き勝手言いやがったけどな、テメェが考えてる程ノープランじゃねぇってこった」

トントンと片耳にはまったイヤホンを叩きながら蛭魔は言う。一寸前が嘘の様に冷静さを取り戻していた。

「でけぇ口叩きやがったんだからな、テメェも扱き使ってやる」
「は、いつも十分使われてるがな」
「明日からしばらく軽トラで通学しろ。部活終わるまで帰るんじゃねぇぞ」

勝負はこの一週間だ。

そういって、いつも通りの不敵な笑顔を浮かべた。ただその黒い双眸は、いつもよりも怪しい光を湛えていたが。