5.彷徨う黒橡
頭が熱い。体が重い。鉛に変わってしまった様な全身をベットに沈めて、
カーテンから漏れた光が舐める天井を眺めながら熱を孕んだ息を吐いた。
昨日は、部活にはいかなかった。引退してからは週に数回行っては引き継ぎだったり手伝ったりする程度だったから、
顔を出さなかったところで違和感はないだろう。それに、まともに顔を見られる気がしなかった。
クラスも違うし部活さえ行かなければ顔を見ることもない。だから、
一日間を置けば自分の気持ちも落ち着くかもしれない。そう、思ったのだ。
そして火曜日。いつも通り準備をして、いつも通りに部室に行って、いつも通り顔を会わせて「おはよう」と言えばいいだけだ。そう、いつも通り至ってシンプルで、深く考える必要もないルーティンワーク。
ところが、事態は思ったよりも深刻だった。部室で顔を会わせた途端、日曜日の出来事がフラッシュバックしたのだ。
あの時の、肺を刺す様な空気をも伴って。息を吸っても吐いても、肺も心も痛い。
まともにとれなかった睡眠が、それに拍車をかけている。
なんとか基本的な作業をこなし、記録を取る為のバインダーを抱えてグラウンドに出た。
何かを抱えていなければ不安に押し流されそうだ。腕に抱えたバインダーが心許ない命綱の様なものだった。
少し離れた味気ない地面を見つめながら、今までどう接していたか懸命に思い出す。だが、考えたところで出てこない。
それもそうだ。よく知る人物に思考を巡らせながら話す人間なんてそこまで多くはない。
顔を会わせたら会話をするなんて当たり前の事を逐一考えたりはしない。
だから、思い出そうとしても出てこないのだ。無意識にしていることなのだから。
空を覆う雲に意識が潰されるような錯覚を覚える。このまま雲が自分を隠してくれたらいいのに。
意識が現実から一瞬切り離された気がした。だから、直ぐ傍で呼ばれていることに気付かなかった。
「おい!糞マネ、聞いてんのか!」
その声と同時に指先がほんの少し肩に触れたとき、自分でも驚くくらいの衝撃があった。
一気に現実に引き戻されていく感覚と、聞こえた声の持ち主への動揺が綯い交ぜになって炸裂した様な。
背筋が突っ張って抱えたバインダーを取り落とす。酷く割れた音がして命綱が千切れたことを知る。
なんとか叫ぶのを堪えて短く息を吸い込むと、顔も見ることができず幾つか言葉を並べて足早にその場を後にした。
何と言ったかは覚えていない。バインダーの残骸もそのままだ。拾いに行く勇気もないし、何せ体がだるい。
驚きすぎたせいか体が火照っている。倦怠感に侵されながら呆然と制服に腕を通した。
結局、そのまま昼前に熱が出て早退したのだ。まだ16時前だと言うのにベッドに体を沈めている。
余程精神的に参っていたのだろうか、たった数日の事で熱が出るほどショックを受けるなんて。
だって、蛭魔はただのチームメイトなのだ。元キャプテンと元マネージャー。それ以上でもそれ以下でもない。
志望校も偶々同じだっただけで、それでも同級生の枠から出ることはない。それなのに何故だろう。
汗をかいたせいか寝巻きが纏わりついて気持ちが悪い。
着替えようとなんとか体を起こして高さが胸くらいまであるチェストに近付く。
その上には鏡があって、意図せず顔が鏡に映る。
それを何の気なしに見遣って、ふと自分の表情に既視感を覚える。つい最近、こんな表情を街中で見たような。
少しばかり考えて、そして愕然とする。そうだ。縋る様な声で叫んでいたあの女の人の、
期待していたものが砕かれた様な表情。
あの時、直感的にこの人はヒル魔くんが好きなんだとわかってしまった。それと同じ貌が今、此処にある。
そして気付いてしまった。何かをしてあげたくなったり、セナの時とは種類の違う放っておけない気持ちの、
よくわからなかった淡い感情の、名前。そして、あの光景を目にして熱が出るほどまでに思い悩んだ、理由。
そう。それは、まさしく恋。否、戀だったものだ。
「…」
辺りはすっかり日が落ちて静かに闇が漂よっている。ナイターのスポットと部屋から漏れる光だけがぼんやりと、
ここがどこかを教えていた。僕は今、そんな明かりの漏れた部室の前に立っている。
中ではヒル魔さんが例のごとく作業をしているはずだった。
本当はまもり姉ちゃんに聞きたいことがあった。だからいつも早く来る彼女に会うために、
普段より少し早く部室に行ったのだ。でも彼女は来なくて、一人二人と部員が集まりだしてもなかなか姿を見せなかった。
彼女からの連絡もない。
朝のあの様子から、部活に出ない可能性は考えていた。
ただ、彼女の性格上全く連絡がないのは考えにくかったから少し遅れてくるのだろう、程度しか考えていなかった。
でも結局授業中に熱が出たらしい彼女は、この場に現れることはなかった。
その情報がもたらされたのはやや遅れてきた栗田さんからだ。まもり姉ちゃんと同じクラスだから伝言を頼まれたらしい。
頼まれた栗田さんも少し、戸惑っているようだった。
何故なら大抵そんな時は姉ちゃんが直接ヒル魔さんに連絡を取っていたからだ。
ところが、今回はそれをせず栗田さんに伝言を託して帰ってしまったらしい。
いよいよ、これは何かある。そう思った僕は話を聞くべくヒル魔さんが一人になるのを待って、
こうして部室のドアに手を掛けているのだ。
鈴音はなんとか説得して帰ってもらった。一緒にいたらきっと、
ヒル魔さんからは何も聞けずに終わってしまいそうな気がしたから。
少し、緊張する。掌はじとりと汗をかいていて喉がつまる。
意を決してドアを開けると部屋に溜まった暖気が体に纏わりつく。
部室の奥のいつもの席にヒル魔さんがいて、タイピングの音だけが響いていた。
一歩踏み込んで、後ろ手にドアを閉める。
「…なんだ」
ヒル魔さんは僕を一瞥して、視線をパソコンに戻しながら聞いてきた。
この状況と、多分恐ろしく堅い僕の表情から自分に用事があると察したのだろう。
「………まもり姉ちゃんと、何かあったんですか?」
なかなか声が出なくて、やっとの思いで絞り出した。
「シラネ」
「ヒル魔さんと話している姉ちゃんの様子がおかしかったのを、今朝見ちゃったんです。
土曜日までは普通だったのに。やっぱり、何かあったんですよね?」
素っ気ない返事に胸がジリジリして体が熱くなった。知らない訳はない。
あんなに楽しそうにヒル魔さんと話していた姉ちゃんが、一変してあんな態度を取るなんて。
「土曜日まで、まもり姉ちゃんはすごく楽しそうでした。マフラーの話、鈴音から聞いたんです。
ヒル魔さんも満更でもなさそうだったって聞いて、僕は嬉しかった。でも今日は…。
姉ちゃんがこんな休み方するのもおかしいし、どうしたんですか?何があったんですか?!」
言葉にしているうちにどんどん熱くなって、最後は声が裏返ってしまった。
しかも二人きりの部屋で話す音量じゃない。でも興味の無さそうな反応を見ていたら段々腹が立ってきて、
言わずにはおれなかった。ただ、言い終わった今になって、急に背中に冷たい汗が伝う。
言葉をぶつけて落ち着いてきたら、相手がヒル魔さんであることを脳ミソが急激に認識しだしたのだ。
ああ、頭に風穴が空くかもしれない。
「……おい」
「はっ、はいぃぃぃい!」
地の底を這う様な低い声で呼ばれて、床に垂直に、刺さるくらいの勢いで背筋が伸びた。
しまった、言い過ぎた。
「聞いてたか?知らねぇっつっただろ。糞マネのことも、糞チアがどう思ってんのかも知ったこっちゃねぇんだよ。
そんなに気になるならダイスキナマモリネエチャンに直接聞きやがれ」
嫌味を多分に含んだ言い方をされて、また体が熱くなる。僕は、そんなつもりで聞いた訳じゃない。
だからつい、口走ってしまった。
「っ…そんな言い方…まもり姉ちゃんはヒル魔さんのことがす…」
「煩ぇ!」
ヒル魔さんが、カジノ台の底を蹴りあげた。酷く軋む音がして乗っていたものが暴れる。
「好いた惚れただそんなモンは知らねぇし興味はねぇ。くだらねぇことグダグダ抜かしてねぇでとっとと帰れ!」
「で、でも…」
「親離れができねぇおこちゃまが、人の話に首突っ込んで解決できんのか?引っ掻き回してぇんなら他所でやれ」
「…」
射殺す様な眼光が飛んでくる。弾が飛んでこないだけマシだったのかもしれない。
背筋が凍りつく様な視線を受けて、じりりと後退る。これ以上はダメだ。口の中が渇ききって声が出ない。
喉の奥が張り付いたようで辛い。
結局そのまま無言で部室を出て、二三歩踏み出して振り向いた。部室は明るい。
でもヒル魔さんは、心なしか暗かった。口ではああは言っていたけれど、気にはしているのだろう。
「…余計なこといったなぁ」
やっぱり、僕が考えたところで、あの二人の何かが解決する訳はなかった。
ヒル魔さんの言うとおり、ただ引っ掻き回しただけだ。
「はは…親離れかぁ…」
自分はすっかり離れたつもりだったけれど、ただの勘違いだったのか。
「心配」という名目でお節介をやいていただけなのか。
「デジャブってやつかな…」
かつてしてもらっていたことを思い出して真っ暗な空を仰ぐ。星は見えない。そして先も見えない。
同じことを繰り返しているだけじゃ、ダメだ。
くるりと踵を返して、トボトボと歩き始める。鈴音にも言っておかないといけない。
今はウキウキしている場合じゃないことを。それに、あの二人の関係は、
僕たちが口を出す次元から外れてしまったことを。
「…チッ」
余計なことを口走った。らしくない。実にらしくない。あれじゃあ何かありましたと自ずから認めているようなものだ。
見ないフリを決め込んでいた箇所を掘り起こされて、つい口をついて出てしまった。
知らないわけがない。何があの女をあんな態度にさせたのか、あの女が何を考えているのか、そして俺が、
バレンタインに何を期待しているのか。
「糞…」
今朝のあれが想定以上に堪えたらしい。正常な思考が削がれて感情が抑えられない。
好きだとかなんだとかそんなものはわからない、筈だ。今までまともに触れたことがないのだ、解る訳がない。
こんな、肺の奥に引っかかって呼吸を圧迫するような感情など、名前も知りたくはない。
止まっていた指を動かして、キーを叩いていく。指が、鉛のように重い。糞マネがああなったのは、恐らく日曜日からだ。
糞マネがあの日あの近辺に来ることはわかっていた。それなのに場所は変えなかった。
見られてもよかったのか、見つけて欲しかったのか今となってはよくわからない。それが招いた結果がこれだ。
この状態に少なからず傷ついている己に、我ながらショックを受けてもいる。
どうやったら打開できるのか。バレンタインを境に何か変わるのだろうか。
…いや、何も期待するな。期待していて良かったことなど一度もなかった筈だ。くだらない感情になど蓋をしろ。
シスコンもどきに図星を突かれたぐらいで動揺なんぞするな。
ギ、と鈍い音を立ててイスの背もたれが反る。やたら眩しい蛍光灯の明かりを眺めながら、
定まらない思考を吐き出すようにため息をつく。色のない筈のそれが黒く濁って見える。
「は…末期かよ…」
重い目蓋を閉じて、回りすぎる頭脳自体停止させる。雑念は全て排除しろ。余計なことは考えるな。
しばらくそのまま静止してゆっくり目蓋をあげると、上体を起こして何事もなかったように作業を再開した。