7.漆黒の中の光明(前編)

 2月某日 PM5:50


  …おかしい。学校から駅に向かって歩いていただけなのに、 おそらく1人分の足音がまもりの速度に合わせるようにヒタヒタとついてくる。 帰宅ラッシュの時間帯で通りに人が多く初めは気が付かなかったが、 途中でコンビニに寄っても本屋に寄ってもずっと一定の距離を保ったまま付いて回る誰かの気配に気が付いた時は、 既に手遅れだった。
 このまま電車に乗ったとしても鉢合わせる可能性があるし、 仮に会わなかったとしても家までついてくるかもしれない。今日に限って1人だし、 こういう時に限って近くの交番には誰もおらずに助けも呼べない。ケータイこそ握っているものの、 誰を呼んでも迷惑をかけてしまいそうで呼ぶに呼べないのだ。 この時ばっかりは甘え方がわからず生真面目な自分に嫌気が差した。 ほんの少しの強引さと柔軟性があれば、この事態も、蛭魔との関係も打開できたかもしれないのに。

 どれぐらい時間が経ったのかわからない。数秒か、数刻か。息が上がっているからそれなりの時間は過ぎている筈だ。 日が落ちて闇が降りる中ぐるぐる似たような所を回って、それでも切れない気配にうんざりしてきた。
 なんでこんなことになったのか。もしかして学校で噂になっていた怪しい人達のせいかもしれない。 色んな噂は飛び交っていたが、1人だけ追いかけ回すなんて話は聞いたことがなかった。 誘拐とか拉致とか監禁とか、物騒極まりない単語が脳裏に浮かぶ。こんなに突然人生が終わるかもしれないなら、 ちゃんと向き合っておけばよかったと思う。セナとも、蛭魔とも、そして、自分とも。
 バレンタイン以降、蛭魔は学校に来ていなかった。 噂ではアメリカに言ったとか脅しのネタを集めに行ったとか言われていたが、何が本当かはわからない。 だからあの日になんとか顔を会わせてこの状況を打破しようとしたのも束の間、 結局それから一週間近く会うことはなかった。避けられているのかもしれない。 それならそれで、割り切らなければならない。
 はぁと一つ大きな息を吐いて、この状態をどうにかしようと頭を切り替える。 この狭い道を抜ければ繁華街に出る。人が多ければ多い程逃げるには都合がいい。 相手との距離を把握するべく、上がる息を整えながら振り向いた。

その瞬間、建物の影から強く腕を捕まれて、ずるずると路地の奥へと引きずり込まれていく。

「……たっ…」

たすけて。咄嗟に口から出た筈の言葉は何者かの掌に押し込められて、結局外に出ることは叶わなかった。 1人じゃない。もう1人いたのだ。やや湿り気を帯びた布に鼻も口も覆われて、意識が朦朧としてくる。 抵抗したくとも四肢に力が入らない。瞼が勝手におりてきて視界も朧気で、 結局、誰が腕を取ったのか、追いかけ回していたのが誰だったのか何もわからないまま、 まもりは意識を宙に手放した。密かに、蛭魔の名前を呼びながら。


PM5:30


「こ、これで本当に無かったことになるんだよな…?!」

 薄暗い路地裏で、3人の男が対峙している。 2人に囲まれた小太りの男が薄汚れた壁に背を押し付けながら、手に持ったそれを投げて寄越す。 暗くて表情はよく分からないが、小刻みに震えているのはよく分かる。

「おー。電話口でアイツがそう言ってたんだろ?なら間違いねぇな」
「アイツはハッタリかますけどな、嘘はつかねぇ。心配すんな」

黒木と戸叶が言い終わるや否や、男は2人の間を押し分けて、躓きながらも肥えた体を揺らして一目散に逃げ出した。 とはいっても、お世辞にも速いとは言えないが。

「…小結の方が速いんじゃねぇか?」
「…だな」

呆れながら二人でその背中を見送って、手元のそれを見る。

「そういやもう1人いるっつってたよな。どこ行ったんだ?」
「ヒル魔が電話したら自主的に喜んで身をひいてくれたんだと」
「……おっかねぇー」
「モノも言いようだよな」
「で、コイツらこんなもんで何しようとしてたんだぁ?」
「あの怯え方を見るとナニしようとしてたんだろ」
「ナニって何だよ」
「…察しろよ」

戸叶は後頭部をガリガリ掻きながら呆れた様子で背後のバイクを指した。

「ここで油売ってる場合じゃねえだろ。早く行かねえとドヤされる」
「へーへー。ヒル魔に聞いたら教えてくれるかな、ナニって」
「馬鹿、寿命縮むだけだぞ」
「…やめとくわ」
「やめとけよ」

黒木はバイクを軽くふかしながらケータイで行き先を確認して、これまでの事を思い出した。

「しっかしよー、電話一本であれだけ怯えるってーのはヤバイよなぁ」
「そりゃ悪魔からの電話だからな。ま、他にもなんかやってたのかもな。疚しくなけりゃ、ああはならんだろ」
「…悪魔のしもべでよかったな」
「…今回だけは俺も同意する」

揃って盛大なため息を吐いて、よろよろと次の目的地に向けてバイクを走らせた。 事の詳細は知らない。ただ珍しくあの悪魔が真面目に話していたから乗ってみただけだ。

「で、モンジはなにしてんだよ」
「別の任務だと。適材適所ってやつだろうな」
「てき…?まあいいや」
「いやよくねぇだろ」
「しっかし太っ腹だよなーこれクリアしたらNFL観戦ツアーだろ。しかも3人分」
「…それだけ本気だってことだろ」

戸叶はつっこもうとしたが、なんだかそんな気も削がれてバイクの速度を上げた。 まだ、件の悪魔に仰せつかった重要なミッションがあるのだ、ここでのんびりはしていられない。

盛大な痴話喧嘩に巻き込まれたもんだな。

そう一人ごちながら夜色を濃くした空の下で、バイクを街に向かって走らせた。


PM6:20


 キシキシと小さな軋みをあげながら、グラスの氷が崩れていく。 コーラの僅かばかりに残った炭酸が、しがみつく様に氷に気泡を残す。 それをストローでつつきながら、十文字は半透明の間仕切りからターゲットを覗き見た。 傷んだ長めの茶髪に隠れているが、恐らくイヤホンで何かを聞いている。

(何やってんだ俺は…)

 冷えてやる気のなくなったポテトを口に押し込んで、頬杖をつきながら視線を上にずらす。 一挙手一投足を気付かれないように見てろという無茶苦茶なミッションを課せられて、 ケータイを見たり上を見たりメニューを見たりしながらかれこれ30分はこうしているのだ。 我に返ると、途端に恥ずかしくなってくる。今のところ苦労の甲斐あって警戒されてはいないようだ。

『ただ見てるだけなら俺じゃなくてもいいんじゃねーのか』

 一週間前の放課後、蛭魔に言われた話にそう返した。 半分は本音だが、半分は自分1人で動くのがなんとなく嫌だったのだ。 戸叶と黒木はセットなのに、何故自分だけが単独なのか。

『見てるだけじゃ済まねぇからテメェなんだよ。つるむ必要はねぇ。適任はテメェだ。糞次男と三男は他にまわす』
『…どうすりゃいいんだよ』
『仕草をよく見てろ。そこから予測できる行動パターンは3つだ。何でくるか、それをテメェが判断してメールしろ』

どうやら、見透かされている上に頼られているらしい。 尻を蹴られることはあっても言葉にされたことはなかったから、妙に居心地が悪かった。

『失敗しても責めはしねぇが、成功すれば報酬を出してやる』
『マジかよ』

その報酬の中身を聞いた時に、蛭魔の本気度を垣間見た気がした。 理由は気になったが、薮蛇になる気がしてそれはやめた。結局、後で理由を知ることになったのだが。

(…あの野郎も大概拗らせてんな)

 「ターゲット」と言われた女の容姿を聞いた時に引っ掛かるものがあったが、見た瞬間に納得した。 背格好といい髪型といい、顔の造形こそまるで違うが元マネージャーに似ているのだ。 大方似た女に無意識に手を出して対処の仕方を間違えた、といったところか。

(アイツもしくじったりすんのか…。弘法も筆の誤りってか?…いやアイツは悪魔か…)

目を細目ながらストローでコーラだったものを啜る。ただ音が盛大に鳴るだけで、中身はほとんど水だった。

(そろそろか)

様子を見始めてから30分が経った頃、女が小型の映像端末を取り出した。 イヤホンの音声はそれとは別のようだ。口元は笑みを掃いていて機嫌が良さそうに見える。

(チッ、笑ってやがる…胸糞悪ぃぜ)

 それが何を意味しているのか、蛭魔の説明とこれまでの流れで理解はしていた。 それでも、胸ぐらを掴んでやりたい衝動に駆られた。それを、寸でのところで堪える。
 端末をテーブルに置いて、ファミレスのソファにゆったり背中を預ける。優雅に足を組んで、随分余裕があるようだ。 夕方のファミレスは学生が多い。談笑に花を咲かせていたりケータイを弄ったり、 自分達の事に一生懸命で赤の他人の行動など意にも介さない。だからここが都合がよかったのだろう。 ごみごみした一角にあって、駅も近い。何が起きてもすぐに行動に移すことができる。
 女が端末の電源を入れたようだ。何を映しているのかはわからない。 それをしばらく眺めていたが、首を少し傾げてそのまま固まった。 ぎこちない動きの左手が、イヤホンを耳に押し付けている。

(さあ、どうくるか…)

じっとその様子を観察しながら蛭魔の言葉を思い出す。

『女が端末を弄り出したら表情をよく見てろ』

イヤホンの音声に集中している素振りのまま、女の瞼と眉が大きく上がって口が僅かに開いた。

『驚いた時は意思に反して瞼と眉が上がって口が開く。それからの動きで行動パターンが決まる』

(ケータイを出したから…パターンAか)

『先手は打ってある。だから端末には何にも映らねぇ。それに気付けば何があったのか連中にメールで確認をする筈だ』

 取り出したケータイに何かしら打ち込んでいるようだ。それを見届けてから蛭魔に連絡を取ろう。 そう思った矢先、女の指の動きが止まり、しばらくじっとしていたかと思うと左側の瞼の下辺りがピクリと引き攣った。 遠目ではっきりとは見えないが、あの様子からしても間違いないだろう。

(…!いやパターンBか)

『人間は恐怖すると括約筋が勝手に動くことがある。特に顕著に反応するのは左側の瞼の下だ。 そうなればパターンB、1人で逃走を図る筈だ。ただ問題は…』

(パターンC…こっから先変わった動きをした場合っつってたが…判断は俺任せってどう言うことだ、あの悪魔め…)

 グラスに残った少ない氷を口に放り込んでガリガリ咀嚼する。 じとりと女を注視して、頭をフル回転させた。追い詰められた時に人はどうするか、 何のカードを切るか、それは生きている以上体の何処かに思考の一部が現れる筈だ。

(あの悪魔だけは例外だろうけどな…)

は、と小さく冷たくなった息を吐いて観察を続ける。すると女のある仕草に微かな、ほんの微かな違和感を覚えた。

(…?)

それから、女は徐に伝票を掴んで立ち上がる。 テーブルに広げていた端末と、手にしたケータイを無造作に鞄に押し込んだ。

(…あ)

 今までの動きと違和感を手繰り寄せて、自分の中での結論が出た。 ゆったりとした瞬きに引き結ばれた唇。何か覚悟を決めたように見える。 答えを送るべくケータイを取り出したが、緊張のせいか指先が震えてなかなか打てない。

(くそっ……こうなりゃどうとでもなれだ)

 背中に冷や汗が伝う。ゴクリと生唾を飲み込んで、勢いをつけて蛭魔にメールをした。 送信完了の文字を見て、瞼を強く閉じそろそろと天井を仰ぎ見た。これでやることは終わった筈だ。
 ふぅーと肺腑から息を全部吐き出して、嫌な汗がひくのを待った。 結局今日の登場人物は全員悪魔の掌の上で踊らされている。 自分達という手札を使ってシナリオ通りに踊るように仕向けられているのだ。 それに気付きもせずに神妙な面持ちで店を出る女に、哀れみを込めた視線を送った。