8.色付く乙女色
暖かい風が肌を撫でる。微かに体を揺らす振動と、唸るような音でゆっくりとまもりは目を覚ました。
どれくらい眠りについていたのかわからない。それに、ここがどこなのかも。ゆっくり頭を動かして様子を伺おうとすると、すぐ隣から声が聞こえてきた。
「気がついたか?」
気遣うような低い声。知っている人物の声だ。未だ重い目蓋をなんとか持ち上げて、右隣の人物を確認する。
「……ムサシ、くん…?」
「怪我はないか」
「たぶん…ないと、思う…。少し背中が痛いくらいで…」
恐らく路地裏に連れていかれた時に腰を打ったのだろう。じんじんした痛みが残っている。
「そうか…。とにかく無事で良かった」
「うん…ありがとう…」
「ドアポケットに水が入ってる。少し飲むといい。蓋、開けられるか?」
「ありがとう、たぶん、大丈夫だと思う」
水と聞いて、喉がヒリヒリしていることに気付く。ずっと緊張状態でその後気絶していたのだから、当然かもしれない。ムサシの優しさに安堵しながら緩慢な動きでペットボトルを手に取って、なんとか蓋を開けると静かに口をつけた。冷た過ぎない水が、ゆっくりと喉を潤していく。ここまで水のありがたみを感じたことは恐らく無いだろう。
少しずつ頭が回転をはじめて、数刻前の出来事がのろのろと巡りだす。追いかけられて、腕を引かれて、何かを嗅がされて、それから先は何も思い出せないものの、ただ一つだけ背中に微かな感触が残っている。温かくて、優しかったような。
「もしかして…車に運んでくれたのって、ヒル魔くん?」
「ああ…。なんだ、気が付いてたのか?」
「ううん、そうじゃなくて…なんとなく、そうかなって」
「…そうか」
対向車のヘッドライトが車内を疎らに照らしていく。闇の中に滑る景色を眺め見ていて、とあることに気が付いた。
「ムサシくん…どこ向かってるの?学校戻るの?」
「すまん、言ってなかったな。今日は栗田の家に泊まれ。アイツんちの宿坊貸し切ってるからな」
「え?!そんな、なんで?!」
「親になんて言うつもりだ」
「え?」
「襲われそうになったって親に言えるのか?仮に隠すにしても、そんな憔悴しきった顔で何も聞かれないと思うか?」
「………」
「心配するな、お前の親には連絡してある。セナが適当に理由つけて説明してる筈だ」
「セナが?」
「ああ。着替えは鈴音が持ってくる。今日は二人で泊まれ。一人じゃしんどいだろう」
「みんな…知ってたのね…」
「あー、まあ知ってたのはヒル魔で、全部アイツの差し金だけどな」
「ヒル魔くんが?」
「元はといえばアイツが撒いた種だからな。自分で刈り取ったってとこだろうがな」
「そうなの…?」
そこで初めてまもりは、蛭魔の素行ときっかけになった出来事を聞いた。どうやらまもりが見た日曜日のあの光景が原因だったようだ。きゅ、と膝の上に握られた拳に力が入る。
「勝手…なのね。自分のせいだからって片付けだけして、さっさといなくなっちゃうなんて」
「ああ、勝手だな。顔ぐらいあわせて行けって言ったんだがな、あわせ辛かったんだろう」
「………」
「自分勝手で無茶苦茶なヤツだ。だが一応責任は感じてたんだろうよ」
明滅する車内で、沈黙が横たわる。聞こえるのは遠くの踏み切りの音と、近くなっては遠くなる車の走行音くらいだ。
「…なんで」
ぽつりと、小さな言葉がこぼれ落ちる。
「ん?」
「なんでヒル魔くん、助けてくれたのかな。こんなに、周りを巻き込んでまで」
「それは…」
「無視したってよかったのに、いくら自分が原因だからってなんでここまでして助けてくれたのかな?私なんて、部活が一緒だっただけの、ただの同級生なのに」
「…」
「あの女の人は、たぶんヒル魔くんの事が好きだったんだと思う。だから、こんな自分の気持ちも良くわからないような私より、好きでいてくれる人の側に行ってあげたら良かったのにって」
一度言葉を紡いでしまったら、後は止まらなかった。今まで外には出せなかった澱が、堰を切ったように溢れだす。
「…自分の気持ちが解ってねぇのはあの野郎も同じだ」
「え?」
「あの野郎はな、他人の好意とか愛情とかそんなもん知らずに育ってる。感情なんか放り出して、全部頭一つで生きてきた面倒くせえ理論屋だ。理論から外れた情の類いはてんで疎いんだ」
「…」
「それでも昔に比べたら随分マシになったんだ。人の機微とか諸々を随分汲むようになった。ただな、それでも自分の気持ちだけはわからないみたいでな」
何回かの減速を経て止まった車は、頭上の信号機の赤に照らされてまるで異世界のようだ。そんな世界を振り払うように、ムサシは言葉を吐き出す。
「自分でどうにもならなくなった時に、その、なんだ…姉崎が見ちまったアレみたいな事になる」
「なんで、あんなことしてたのかな…」
「…アイツのアレは自傷行為みたいなもんだ。いいことなんか何もないし、既に碌な事になってねぇ。まぁ、ここ暫くはすっかり治まってたんだがな、最近また出ちまってる。なんでかわかるか?」
「え?」
「自分の気持ちってヤツが解りだしたんじゃないかと俺は思ってる。アレはただの捌け口なんだろう。一番近い筈のお前には当たらないのがその証拠だな」
「そんな…だって今までそんな素振り一度も…」
「そんなこと表に出す奴じゃない。それだって姉崎も一緒なんじゃないのか」
「それはそうかも、知れないけど…」
「もう見ないフリを続けるのも、限界なんじゃないのか?」
「…そうかも知れない。本当はね、気付いてはいるの、自分の気持ち。でもね、私怖いの。気持ちを打ち明けて距離を置かれたらとか、セナの時みたいに…雁字搦めにしちゃうかも、とか、いろいろ、考えちゃって」
漸く滲み出した本音は、まだ小さく弱々しい。
「ヒル魔がそんなタマだと思うか?」
「…え?」
そうだ。確かにそうだ。かつてのセナは自分に自信がなくて手を差し伸べれば躊躇わずに受け入れた。だが蛭魔は違う。そもそも自信しかないし、同情とか憐憫とかそんな理由で差し出された手なんて絶対取らない。物凄く単純で明快だ。
「そう、か…そうね。私、難しく考えすぎてたのかなぁ」
「そうだな。お前もアイツも考えすぎだ。まあ今気が付いて良かったんじゃないか」
「うん…」
あれだけ重たく考えて悩んでいたことが、車の中の僅か数分で雲のように軽くなっていく。
やがて車は住宅街に入って、そして大きなお寺の前でゆっくり止まった。どうやら目的地に着いたらしい。
「着いたぞ。栗田が張り切って雁屋のシュークリーム買い込んでたからな、遠慮なく食ってこい」
「ふふ…送ってくれてありがとう、ムサシくん。ヒル魔くんによろしくね」
「それはお前から言ってやれ。じゃあな」
軽い口ぶりでそう言って降ろされたまもりは、走り去る軽トラを小さく手を振って見えなくなるまで見送ろうと思った。結局は、見えなくなる前に巨体を揺らして走ってきた栗田にあれよあれよと言う間に寺に押し込まれて、それは叶わなかったのだが。
「姉崎さん良かったよ無事でー!心配してたんだよー!シュークリームたくさん用意してあるからね!鈴音ちゃんも部屋で待ってるから!ね!ね!」
「あ、うん、ありがとう…ごめんね心配かけちゃって」
終始高いテンションのまま宿坊まで案内する栗田になんとかついて行くうちに、肩から力が抜けた気がした。どうやら、ここまでずっと緊張し続けていたようだ。
学校も近いから、ゆっくり休んでね!そう言われて案内された部屋の襖を開ければ、ほとんど同じタイミングで鈴音が飛び出してきた。
「ヤー!まも姐ー!大丈夫?!怪我は?!痛いところない?!」
「だっ、だいじょうぶ、背中打ったくらいで怪我はないの。ごめんね、心配かけて」
矢継ぎ早に言葉を投げる鈴音を何とか宥めると、少し落ち着いたのかまもりをやっと部屋の奥の席に案内して、そっとお茶を差し出した。鈴音も自分の分のお茶を入れながら再び口を開く。
「…大変だったね。まさか変な人に追いかけられるなんてさ」
「うん…でも助けてもらったし…それに今回のことで自分の気持ちにも…その、気付けたかなって」
「え?気付けたって…」
「ヒル魔くんのことが、その…好きなのかなって」
鈴音はまもりの突然の告白に、叫ぶ代わりに自分の口を両手でぎゅっと押さえて衝動に耐えた。時間も時間だし、場所も場所だし、何より栗田がすっ飛んできて話が有耶無耶になるのだけは避けたかった。今まで待ちに待った話題が、まさか本人の口から語られようとしているのだ。こんなチャンス棒に振るワケにはいかない。
「…今までね、あんまり考えないようにしてたの。『好き』って、よくわからなくて」
テンションが最高潮に上がっている鈴音とは対照的に、まもりは訥々と語り出す。
「恋の『好き』と人としての『好き』の差が解らなかったの。誰かに聞いても、相手の事なら何でも知りたくなっちゃうとか常に相手の事気にしちゃうとか、そんな答えばっかりでね。それなら恋とか関係なく誰に対してもそうだし…それにセナには…やり過ぎて隠し事させることになっちゃうし…」
苦いものが胸に込み上げる。でもこれは、今の自分には必要なことだ。
「だから、ずっと怖かったの。またセナの時みたいに足枷になっちゃうのかとか、気を遣わせちゃうのかとか。ヒル魔くんとセナは全然違うのに、ちっとも気付こうとしなかった」
ふ、と微かな笑みが溢れる。まるで、鈍重な重りを外したような、そんな表情だ。
「セナだって、あの時とは全然違う。ちゃんと前に進んでるのに、私はずっと足踏みしたままだった。それが、やっとわかったの。今回の事でやっと」
「…そっか」
静かな独白を聞いて、鈴音のテンションは一気に元に戻った、ずず、とお茶を一口啜って向かいのまもりを伺い見る。重苦しい雰囲気はない。ほとんど、平素の通りと言ってもいい。
「よー兄もまも姐も、そのうちくっつくのかなと思ってた。だってずっといい雰囲気だったし、すごく自然だったから。でも、実際はそんな簡単な話じゃなかったんだね。ごめんね、全然気が付かなくて」
鈴音は、まもりのセナに対する過保護っぷりをよく知っていた。そしてそれがアイシールド21の正体を明かしてからすっかり落ち着いたのも、知っているつもりだった。ところが、思ったよりもずっと彼女の心に残した凝りは大きかったのだ。知らなかったとは言えキューピッドを気取って引っ掻き回していたかと思うと、途端に居たたまれなくなった。
「足踏みしてた訳じゃ、ないと思うよ。ちょっとずつ進んでたんだと思う。そうじゃなかったら、まだ悩み続けてたかもしれないよ」
「そう、かな」
「そうだよ!だから、答えが出たんだと思う。きっと、まも姐にとっては必要な時間だったんだよ」
「…うん。ありがとう、鈴音ちゃん」
「ほら!クリタンがたくさんシュークリーム買ってきてくれたから食べよう!食べたら、もっと元気出るよ!」
そう言って鈴音は、シュークリームをまもりを取り囲むように座卓に並べていく。花が綻んだような彼女の笑顔が目に入って、やっといつもの笑顔が見られたな、と思った。まもりの表情に嬉しくなって、鈴音は鼻歌交じりにお茶を入れ直しに向かった。