常軌を逸する。 2

 壁の色は黒で、更に照明が極力落とされた室内に僕はいる。目の前には上が見えない程の巨大水槽があって、そこのちょうど根元の部分に良く見知った幼馴染みと、彼女に良く似た小さな女の子がはしゃぎながら自由に泳ぎ回る魚を見ていた。
「ままーいるかさんおっきいねー!」
「ねーおっきいねー!あっ、後でイルカショー見ようか!」
「みるー!あ、あのおさかなおもしろいー!」
「うん?どれー?」
 こうして遠巻きに二人を見ていると、やっぱり親子なんだなぁと思う。同じ栗毛に同じ碧眼を同じに揺らして、同じ様にこの時間を楽しんでいる。…あの子にあの人の血が混ざっているって言うのが不思議なくらいなのだけど。
「やー!ホントに彩ちゃんまも姐そっくりだよねー!」
「わっ!」
ぼうっと考えに耽っていたものだから、突然背後から飛び付かれて思わず爪先立ちになるほど驚いた。この声の持ち主は、鈴音。
「セナ驚き過ぎー」
「お、驚くよ!」
余程楽しいんだろう笑みを浮かべながら背中に抱き付いて頬を背に押し付けている。つまりは、まあ、そういう仲にはなっている訳で。
「妖兄の子供って言われてもわかんないよね」
「だ、ダメだよ鈴音それ言ったら」
 第一どこで聞いているかわからない。とは言ってもそんなセリフは世界できっと鈴音かまもり姉ちゃんくらいしか言えないんだろうけど。水槽の内側をぼんやりと下から照らした明かりは水中をただただ自由に泳ぐ魚たちの色とりどりの体を不変に飾り立てて、それでも尚飽き足らぬとでも言わんば かりに外側で無邪気に中を見遣る親子の淡い栗色の髪をも照らした。中で泳ぐ魚と遜色ない程煌めく。それにあの二人の眼の色は、今僕の眼に映る水中によく似ている。ふと、姉ちゃんの隣りの少女が幼い時の自分と被った。どう考えても自分があの少女と同じ位の年の時は姉ちゃんの年もそれくらいの筈なのに、それでも何故か、そう見えたんだ。ここまで来ても、まだ寂しさは感じてしまうらしい。
「…セナ?」
茫然と身動き一つせずに二人を眺めている僕に不思議そうに鈴音が声をかけた。いけないいけない。いい加減、前を見ないと。
「あ、ごめん」
 首を少しだけ回して鈴音の眼を視界の端に捉えた。黒々として常に快活な光を湛えた瞳が今はやや心配そうな光を孕んでいる。やはり僕はいまいち大人になりきれていない様に思う。肩から伸びて胸で重ねられた手にそっと触れた。あの頃重ねた手より今の自分の手の方がずっと大きく感じるのは恐らく気のせいじゃない。
「あたしも、あれくらい仲のいい親子になりたいな」
ぽつりと肩口から降りた声に静かに返した。口から出た言霊は水泡の様に浮かんで音もなく消えた。
「大丈夫、なれるよ、鈴音なら」
頬に触れた黒髪が、微かに揺れた気がした。
「あ!おいこんな所でイチャイチャしやがって!」
「アハーハー随分仲がいいじゃないかキミたち…!」
雰囲気とか空気とかまるで読む気がないどころか「クウキ」がなんたるかも分かっていなさそうな声が二つ、後ろから響いた。同時に溜め息が二人分押し出される様にして出る。まるでところてんだ。
「この馬鹿サル馬鹿兄貴…!」
「ど、どうしたの二人共。ペンギン見に行ったんじゃなかったっけ?」
恨めしそうにぼやく鈴音を尻目にそう尋ねた。そうだった。二人して競い合う様にペンギン見に行った筈なんだ。理由は未だにわからないけど。
「おーよ、ペンギン見てたんだけどよーそしたら」
「ムッシューヒル魔がぬいぐるみ抱えて歩いて行くのを見たのさー」
「で、そっちが気になっちまってよ。あ、ほら来た」
ふいにモン太が目の前の巨大水槽に指を向けた。その先には確かに小脇に大きなぬいぐるみを抱えたヒル魔さんがいた。
「…やっぱ妖兄、ぬいぐるみ似合わないね」
…そんな事言えるのはやっぱり鈴音だけだと思う。 すると歩いて来るヒル魔さんを見つけたらしい姉ちゃんが手をぶんぶん振りながら嬉しそうに呼んだ。しかも。
「あ!妖ちゃん!ちょっと写真取って欲しいんだけど!」
「おーじゃあこの馬鹿でけぇ糞ぬいぐるみどうにかしやがれ」

「「「よ…!?」」」

高校時代ならこの世の終わりの様な顔をして銃を乱射していたであろうヒル魔さんが、そう呼ばれてもいたって普通に、しかも顔色一つ変える事なく返事をした。顔の色が変わったのはこっちの方だ。
「やー!よーちゃんだって!ラブラブー!」
あわわわわわ鈴音それは言わない方が身の為だよ僕の!
 案の定鈴音の一言が聞こえたらしい(それはそうだと思うけれど)ヒル魔さんがぐるりと体をこちらに向けて物凄いおっかない顔で銃を構えている。姉ちゃんはアヤちゃんと水槽に向き直っていて気付いていない。ひいぃぃぃぃ!
鈴音が言った「ラブラブ」の一言にモン太が泡を吹いて倒れたのが視界の隅に入った。未だに、姉ちゃんの事が好きだったんだろうなぁ…。そんな事を考えている暇などなく、気がつけばツカツカと軽快かつ鬼気迫った足音と共に銃が、眼前に。
 いつの間にか首に回された鈴音の腕に無意識なのか力が籠り出した。ぐえぇ絞まってる絞まってる…!瀧くんは固まったキリでたまに気の抜けた様なアハーハーが聞こえるだけだ。ヒル魔さんの標的は喜々とした表情で僕の首を締め上げる鈴音じゃなくて、いよいよ息が出来なくなってきている僕だった。
「人んチの団欒邪魔しようたぁ随分お偉いご身分にナリマシタネェ糞チビサン? 」
女性には手を上げないのは彼なりのマナーなのか。
「い、いや…僕は「ほらよーちゃん!早く行ってあげないと彩ちゃん寂しがるよ!」
僕の息も絶え絶えの弁解にものの見事に台詞を被せた鈴音は、僕を盾にしたっきりでヒル魔さんと対峙する気は毛頭ないらしい。鈴音の楽しそうな声と反比例して眼前の悪魔はまるで悪鬼の様な形相だった。
あぁぁぁぁぁぁぁぁ…。

ゴリ。

僕の眉間に食い込むワルサー。
「…躾くらいちゃんとしとけ糞糞糞チビ」
「は、はいぃぃぃぃぃ…」
「もう躾とか言って酷いなぁよーちゃんは!」
も、もうやめてぇぇぇぇ…!
頭蓋から伝わった撃鉄の振動が脳みそを揺らしたちょうどその時、なかなか来ないヒル魔さんに気が付いた姉ちゃんが振り向いた。
「ちょ…妖一!セナに何してるのよ!」
「生活指導」
「それをされるべきなのは貴方の方です!」
 慌てて飛んで来た姉ちゃんによって一生を終えずに済んだ僕は、只管謝り僕のおでこを心配する姉ちゃんに大丈夫を連呼しながら首に鈴音をつけて瀧くんとモン太を引き摺ってその場から逃げ出した。だって忌々しげな目を向けるヒル魔さんがそりゃあもう恐ろしかったから。首が絞まるのも気にしないでとにかく走っていたら、後ろの鈴音がぽつりと言った。
「愛されてるね、まも姐も妖兄も彩ちゃんも」
うん、僕もそう思うよ。
銃を突き付けられた額がもうなんともないのは、きっと気のせいじゃない。