常軌を逸する。 4

 手にお湯を掬ってゆっくりと顔を浸した。穏やかに湯が顔を撫でる。温泉らしい独特の匂いと芯まで暖まる湯温にふうと息を吐いた。吐き出した息は舞い上がる湯気と一緒なって宙を踊って、程よく灯された明かりとぶつかってきらきら瞬く。耳をくすぐる葉擦れの音がなんとも心地良い。それに、腕と腕が触れた部分が 一層強い熱を持っていてまるで冷める事を知らない。湯の表面が光っているのは月明りのせいか、はたまた隣りの金のせいか。
「ねぇ」
「あ?」
「行きたがってたの、知ってたんでしょ?」
「何が」
「露天風呂付き個室の純和風旅館」
「んなもんたまたま空いてただけだ」
「ふふ、そうね、ちょうど貸し切り出来るくらいがら空きだったんだものね」
「…ケッ。満足か、糞女房」
「うん、まんぞく」
零れんばかりの満面の笑みに眼が釘付けになって、蛭魔はそれを誤魔化す様に再び口を開いた。
「おい、なんでテメェ急に同窓旅行なんざやる気になったんだ」
「ん?うーん…こういう事でもしないと全員で集まるなんてそうそうないじゃない?」
「結婚式があっただろうが」
「それはそうだけど、あれはあれよ。あの時は彩菜もまだいなかったし、子供ができたら一回はみんなに会わせたいなって思ってたし」
「なんでだよ。わざわざ会わせなくったっていいだろが。馬鹿が移る」
「ちょっと!そんな事言わないの!みんな大好きだから、自分の子供にもね、そんな人達に会って欲しいなって思って」
「…会ったって成長しちまえば忘れちまうだろ」
「そういう問題じゃないのよ。記憶に残る事が全てじゃないの。小さいうちに得た体験ってその後の人格に影響するのよ。あの子には誰かさんみたいに髪の毛逆立てて欲しくないもの」
「テメェ喧嘩売ってんのか」
「売ってませーん」
すっかり水分を含んで垂れ下がった金髪をかき上げて、その勢いのまま、まもりの茶色に手を伸ばす。茶髪が揺れて、くすぐったそうに笑った。
「彩菜がね、十文字君みたいな人が好きなんだって」
細長い指が絹糸の様な茶髪を上から下へと梳く。その度細かい髪の束が湯気の間をたゆたって現実離れした光景を造った。何とも言えない光の反射を作り出しては周囲に溶け込む。
「あ?」
「面倒見がよくてかっこいいから結婚するなら十文字君みたいな人がいいんだって」
「ほーう」
「それにね、セナみたいな優しい人も好きなんだって」
「ほほーう、あんなヘタレ糞チビのどこがいいんだか」
「もう!そこまで言う必要ないでしょ!…でもね、一番好きなのは」
「まだいるのか」
「いいから聞いてよ!」
「早く言えよ」
尚も髪の毛を泳ぎ続ける蛭魔の指を止めるのは、案外とたやすいものだった。
「パパなんだって」
「…は?」
「だからね、パパが大好きなんだって」
「…」
 一瞬惚けて、それでもすぐにいつもの表情に戻って再び髪を梳き出した蛭魔に笑いを噛み殺す。それがいつも周囲を欺いている周到な照れ隠しだなんて事は嫌と言う程知ってしまっている。私を誤魔化すなんて、今の貴方にはもう無理よ。
「でもパパみたいな人はそうそういないだろうから十文字君で我慢するんだって」
「妥協かそれは」
「うふふ、それ程貴方が希少なのよ」
「…レア物扱いかよ」
「あら、だってレアじゃない。惚けた顔の悪魔なんてそうそう拝めないわよ?」
「…うるせぇよ」
くしゃくしゃに髪の毛を掻き混ぜられて、もう!と唇を尖らせたものの楽しくて楽しくて仕方がないと言った呈で蛭魔に抱き付いた。
葉擦れだけが響く静かな闇に、軽快な水飛沫の音が混じった。