灰色/ホットココア/甘味(3本詰め)

【灰色】


 呆然と空を見上げてははぁと大きく溜め息をついて、手元の記録用紙を一瞥してはまた視線を前に戻して部活に専念する面々を眺めた。嫌味の様に青の一つも留める事をしない灰色の空はポタポタと水滴を落として、そんな天気にも関わらず、まるで気にする事もない様に平然と活動し続ける赤い集団に関心と心配が綯い交ぜになった様な感情を抱く。
特に21を背負った小柄な少年に。
 彼は高校に入っても何も変わらない、私しか知らないであろう人物で居続けると思っていたのに。いや、思い込んでいたのに。ところが実際は私だけ真実を知らなかったばかりでなく、無意識に理解すらしようとしていなかったその事実を突然突き付けられて、その時は自己嫌悪に吐き気さえして剰さえ涙を流す始末だった。
あれから現実を直視しようと試み続けている。
 だが思いの他思い込みと言うものはしぶとい様で、頭ではわかっていても、無意識下では拭いきれていないのもまた事実。もう一つ大きな溜め息を吐いて、胸中に溜まった泥を吐き出す。ポタポタ落ちる水滴が座り込んだ木陰の周囲を黒く染める。なんだかまるで自分の心境に似ているなーなどとぼんやり考えて視線を前に戻した。つもりで。
余程思考に没入していたのか、知らぬ間に、眼前に凶悪な、眼。
「ひゃああっ」
「間抜けな叫びあげてんな」
まもりが気付いたのを確認して立ち上がり、驚きの余り両手を地面に着いた女を見下ろす。雨脚は、先程より強くなってきている様だった。
「もうっ脅かすからじゃない!」
「脅かしてなんざねえよ。茫然自失のテメェが悪い」
 そう返しては睨む。普段十分過ぎる程よく働きよく頭が回る女の動きをこうも鈍くさせる原因は、一つしか思いつかなかった。まもりは部室に向かう面々を視界の端で捉えて、自分も部室に戻るべく重い腰をあげる。これ以上この男と居れば、自分の醜い感情を露呈されるだけだ。他に利益などない筈だ。自分の弱さを晒すのは、あの時だけで十分だ。
だから、早く逃げなければ。
腰を軽く払って完全に背を向け歩き出したまもりに向けて、言葉を放つ。
「姉崎」
「…!」
呼ばれる事がない名前で呼ばれて一瞬反応が遅れた。 振り返るのもままならないまま、背中に届く声。
「いい加減理解しろ。綺麗事ばっかりで生きようとすんじゃねぇ、糞マネ」
あぁ、バレている。
やっぱり隠し事は通用しないんだなぁ。
 足が地面に縫い付けられた様に動かなくなる。木陰から出たせいで中にいた時よりも速い速度で徐々に体を濡らしていく雨にも意識が及ぶ事はなく、ただ、俯いた。後ろから足音が近付いて来る。そのまますれ違い様に首元に柔らかい物が当たった気がして手で触れた。
タオル、だった。
「風邪ひくつもりか。これ以上世話焼かせるな糞馬鹿女」
そう言い残してすたすたと歩いて行ってしまった。渡されたタオルを握りながら、その後姿を見て、まもりもまた歩き出した。雨が酷く心地良い気がして空を見上げる。もうすぐ、青空も覗くかもしれないと、思った。


【ホットココア】


忘れ物した。正門前でそう呟いた瞬間のあの悪魔の顔ときたら。えぇどうせ間抜けですともごめんなさいね!

 そう吐いて慌てて部室に忘れたノートを取りに行って戻ってくる途中だった。辺りはすっかり暗くなっていて、時々吹き付ける嫌に冷えた風のせいで指先の感覚も鈍くなる程寒かった。しかも走ったせいで鼻も頬も耳までジンジンする。
「5分だけ待ってやる」
と言われて必死になって走ったものの、戻ってくる途中で5分経ってしまっていた。きっともう帰っちゃったんだろうな。そう思いながらもペースこそ落としたもののまだ走り続けていて、やっとの思いで正門に着けば予想通りに悪魔は前方15m先にいた。手をひらひらさせて飄々と。
もう!ケチ!
待っててくれたっていいのに!
 わかってはいたけれど。いい加減乳酸が溜まった足を無理矢理動かして躍起になってその背中を追う。息は白い。風は痛い。でも一人で帰るのは、二人で帰る事に慣れてしまった今となっては少し寂しくて。走って走って追いついたついでに背中に体当たりしてやった。
「痛ぇ!」
「もう!少し、くらい、待ってて、くれても、いいじゃ、ない!」
「待ってたじゃねぇか。5分」
「短い!」
「だからってボディーブローかよ。糞凶暴風紀委員」
「うる!さい!」
喋るのも息をするのもやっとでなんとか呼吸を整えては歩き出す。
あぁ手が冷たいし耳も痛いし息も切れ切れだしどうしてくれるのよ!
「うるせぇっつーんならこりゃいらねぇな」
「え?」
いきなり頬に熱い塊。
「きゃっ!」
「いらねぇんなら返せ」
軽い酸欠でぼーっとしたままやっとの思いで確認してみれば缶のホットココア。彼なら絶対飲まない代物。
「…いただきます」
息苦しいのも苛々したのもすっかり忘れて、意地悪い様で実は不器用なだけなんだなーと 再認識してから両手で缶を握り直した。


【甘味】


 他人の体温が案外落ち着くモンだと思う様になったのは何時だったんだかな。思い出すのも馬鹿馬鹿しい。しかもなんでこんな時に限って思い出そうとすること事態馬鹿馬鹿しいっつーのにどうしたんだ俺の頭脳。おい。
それもこれも今俺の胸で泣きじゃくっている女が悪い。
 そもそも原因が我ながら捻くれていると思わざるを得ない程一見ぞんざいなプロポーズのせいだと言うからお笑いだ。端から聞いたら絶対そんなモンだとは思わないだろう発言の真意をしっかり汲み取った女は、未だに飽きる事なく泣き続けている。そして俺も抱き続けている。飽きる事なく。
俺が巷に出回っている反吐が出る様な糞くだらねぇ三文芝居じみた糞甘ぇ台詞を吐く訳がなく、それを重々承知の上で尚も甘い台詞とやらを強請り続けた女は、結局「甘い」とは真逆を地で行く台詞で陥落した。後で心境を聞いてみてぇモンだな。ケケケ。
俺にしてみりゃ昔に比べりゃあ随分甘くなったモンだとこれでも一応思ってはいて、そうじゃなけりゃプロポーズなんてもんは一生する事はなかっただろうし、それを裏付けるかの様に現に味覚も少しばかりは甘いモンに耐えられる様になってはきた。
例えば。

泣きじゃくる女を胸から剥して顎を軽く掴む。まだまだ潤む事をやめない碧い眼を覗き込んで、唇に唇を重ねた。

コイツみたいな。