イソップ少女。/足を捕らえうる白い靄/「甘味」という名はそぐわない(3本詰め)

【イソップ少女。】


「あ、いた!ヒル魔くーんこっちー」
「…!」
「おはようー。さーどこ行こっか?」
「…おい」
「うん?」
「なんだその格好」
「え?これ?えへへーおニューのニットワンピース。白がかわいくて買っちゃったの」
「んで、カラータイツにブーツか」
「うん、ブーツもおニューなの。珍しいね、服装の事言うなんて」
「羊みてぇ」
「う、うるさいなぁ!いいじゃないかわいいんだから!」
「スカートからケツ見えんじゃねぇのか?」
「見えません!」
「…はぁ」
「…何よその溜め息」
「テメェ周りに何が見える」
「はい?え…と…通行人とビル?」
「…はぁ」
「ちょっと!なんでまた溜め息吐かれないといけないのよ!」
「テメェが本当に羊だったら速攻食われてんぞ」
「はい?」
「…これだから鈍い女は面倒臭ぇんだよ」
「何それ、意味わからないんですけど」
「テメェは自分は美味くねぇから絶対ぇに食われねぇと思ってる間抜けな羊だと言いてぇ訳だ」
「…益々意味がわからないんですけど」
「…いい加減解れテメェ」
「解る訳ないでしょう!」
「…しゃーねぇなぁ。じゃあどんだけ人が言っても全部イソップのホラみてぇに聞こえて我関せずでのんびり草食ってる間にバクリと食われちまうだろう憐れな羊に、この俺がご丁寧に実践してやろうジャナイカ」
「何それ。…その何か目論んでる顔やめてもらえますか?」
「存外身近な所に狼は潜んでる訳だ。っつー事で」
「…事で?」
「狼を代表して俺が食ってやろうと思う」
「…は?」
「直進すれば服屋ならぬ草原、曲がればホテルもとい台所。サァドチラニナサイマスカ、アネザキサン?」
「わかりましたごめんなさい是非直進でお願いします!」
「ケッ、やっとわかったか糞女」


ニットワンピは体のラインがよくわかる。


【足を捕らえうる白い靄】


 目の前で味気も色気もへったくれもねぇ床にぽつぽつと気紛れに黒い染みができるのを、特に動く気も起きずただ観察した。それの発生源は紛れもなく眼前で始終俯く女なのだが、そのナリと言ったらない。部室の椅子に力無く座り込み、膝の上に築いた二つの拳はぎりぎりと握り締められて、その矛盾する光景は滑稽と言えばそうだし悲痛と言えばそうだとも言えるなんとも不細工なものだった。まるで今のコイツの顔そのものだ。また握り締められた拳の上に落ちた雫がつるりと滑り落ちて床に散る。そこまで呆然と観察して自然と溜め息が漏れた。なんでこうまでこの女は直ぐに感情が露呈するのか。 全く持って面倒臭ぇ限りだ、が。今の件に於いて俺が全くの無関係かと問われれば、珍しく否定しきれないもんだから仕方無しに無言でこの場に留まっている。正確に言えば動けない。動いてはいけない。
 立ち尽くしたままもう一度女を見てみれば、拳に水溜まりを作る事しかする気がなかった碧眼が、怨めしそうに事の発端を睨んだ。その視線を眼で追って、そのまま必然的に眉間に皺が寄る。視界の隅に転がる雁屋とか言う忌々しき二文字が印字された白い箱から、中に入っていたらしい物体が転がった粉っぽい白い跡が俺の足下まで来て止まっている。女の碧眼が俺の上を滑った。珍しく殺気に充ち満ちた眼で俺を睨み付けている。その眼を負けじと殺気とおまけに苦渋をも孕んだ眼で睨み返してやりながら、恐る恐る(普段の俺じゃありえねぇが)自分の足を持ち上げた。
 その瞬間ねちょりとした感触と鼻を突く毒物以外の何物でもない臭いに五感が一気に破壊された様な錯覚を覚えて、全身総毛だった。飛び出した盛大な舌打ちに更に女の殺気が濃くなったものの、ンなもの気にしてられるか。糞!


シュークリームを踏んづけた蛭魔さんの話。


【「甘味」という名はそぐわない】


 頭蓋に突然衝撃。ばすんとかぼふんとか言う類いの効果音が付きそうな衝撃が頭頂部を襲った。そのままぐわしっと頭を掴まれて、強制的にぐりんと回された。目の前には凶悪な我が部のキャプテン。あまりに突然だったものだから作業中だった私の手は当然シャーペンを握ったままで、体も当然椅子に座ったままだった。まるで体だけ時間に置き去りにされた様な。首が変な格好に捩じれてて、若干息苦しい。
「な、に?ヒル魔、君」
 せっかく声を絞り出したのに、立ったままのこの仏頂面の金髪には微塵も有り難みが伝わらなかったらしい。軽く息しにくいんですけど。こう見えて。
「変なツラ」
「誰の!せい!ですか!」
 またしても突然失礼極まりない事を言われて思わず声を荒げてしまった。お陰で肺にあった酸素のストックが一気にエンプティーまで下がる。息苦しさで噎せる。涙が滲む。それが視界に入ったからなのか、ヒル魔君の片眉がぴくりと上がって頭を掴んでない方の手で私の椅子を乱暴に向き直らせた。かなり無茶がある。息はしやすくなったけど、一緒に小さな悲鳴も出るのはもう否めない。

「キャッ…もう何よ!急に頭掴んだり椅子の向き変えたり!」
「なんとなくだ」
「何よそれ!」
 仮にもダーリンハニーと呼び合ったっていい仲の筈なのに(実際そんな風に呼んで欲しいとは微塵も思わないけれど)なんだってこうまで扱いが粗雑なんだろう。呆れと怒りが入り交じった様な眼を向けるのが、最早精一杯の抵抗とも言える。何をやっても無駄なのは百も承知だ。それを露ほども気に止めなかっただろうヒル魔君の顔がすっと近付いた。私の眼はもう条件反射と言ってもいいくらいに自然と唇にいく。薄い、それでいて意外にも血色のいい整ったくちびる。少しかさついてるのはしょうがないのかしら。確かにリップクリームを必死で塗りたくるヒル魔君なんて気色が悪いけれど。
 ダーリンハニーと呼び合う事も無いし、況してやあいのことばなんてハーレクインみたいな事も有り得ない。ムードを作る事もその努力さえもしないし優しさなんてあるのかしらとも思うけれども。結局のところこの人が衝動的にアメフト以外の物を求めてみたり、シュークリームを目の前で食べてても黙殺(でも眼光は殺人的だ)するようになったあたりに恋人らしさの片鱗を見出だしてしまった。
嗚呼なんて、私は憐れな女なのでしょう。
結局今までの一連の行動は、これがしたいが為だったのだ。
どんどんと、顔が迫る。
彼の眼が、私の眼の奥まで覗き込んで。
視界が滲んだのを合図に、ゆっくり瞼を下ろした。