消えた人影 3

 俺は今、女に連れて来られた『今の俺の家』のリビングに居る。
基本的にモノトーンで統一された部屋に、所々遊具やら小洒落たインテリアが鎮座していて、あの女の趣味を垣間見た。この家全体がモノトーンで覆われている辺り、俺の趣向自体は今も昔も変わってはいない事を物語る。そのリビングの中央に置かれたテーブルでコーヒーを啜りながら、あの女が引っ張り出して来たアルバムの山を片っ端から見漁っていた。女は娘を迎えに行くと言って、今此所にはいない。女の名前はまもりと言った。
やはり、聞き覚えはなかった。


彩菜の手を握りながらどうすべきなのか、戸惑っていた。今、この子の存在が、唯一の支えだった。
この子に真実を話すべきか否か。
いや、仮に話さずとも勘の鋭いこの子の事、すぐに悟って警戒してしまうのではないか。そう思うとやるせなさが先立って、何も口に出せずに黙々と歩くしか出来なかった。今も、ほら。
「まま…?だいじょーぶ?」
 心配そうにこちらの顔を覗き込む、碧い瞳。 柔らかい栗色の髪に空の様な碧い眼。顔は人に言わせれば私に瓜二つで、あの人の面影などまるでなかったのに、表情一つ一つ取って見ればそこかしこに面影を感じられて、それを見る度に笑いが込み上げていたのを思い出す。でも、今は、この子の表情を見る度に、堪らない切なさが込み上げてくる。
「うん、大丈夫よ。今日は何食べようか」
 無理矢理取り繕った微笑みを浮かべて悟られない様試みる。だが、この子を前にしてその様な行為がまかり通らない事くらい重々承知で、それでも私はそうするしか出来なかった。そうしなければ、立っている事さえ危うい。
そう、浮かべた微笑みは誰の為でもなく、他ならない自分の為なのだから。
そうしなければこの子を余計不安にさせてしまうと思っていたから。だから、笑わなければ、ならなかった。それが今の私にできる唯一の抗いだった。
「今日ね、パパが帰って来てるのよ」
「ほんと!?ぱぱ、おめめさめたの!?」
大きな眼をパチパチ瞬かせて満面の笑みを浮かべる。得も言われぬ罪悪感が込み上げて、自然と眉間に皺が寄った。眼が熱くなる。
いけない。泣いてはいけない。
髪の毛で表情を隠しながら一つ頷いて、闇色が濃くなった空の下を、歩いた。


* * *


 アルバムは全部見た。今は出かけた時に撮ったというビデオを見ている途中だった。
アルバムを見ている時も、ビデオを見ている時も、何度となく不意に既視感を覚え、その度に来る鈍い頭の痛みに苛立ちを覚えて女が淹れて行ったコーヒーの残りを飲み干し、顔でも洗うかと席を立った。 鏡の前に立って、今の自分をつぶさに観察する。金髪にピアスは変わりないものの、確かに中学卒業直後とは思えない年齢を重ねた顔。自分の想像よりも遥かに穏やかな表情をした、顔。写真やビデオで見た、自分とは思えなかった自分が、確かにそこに居た。蛇口を捻って水を勢いよく出す。これが夢なら覚めてしまえと、春先のまだ冷たい水を顔に叩き付ける。
何度も何度も。
それ程に、現実味がなかった。
 洗面台に両手を突いて毛先からしたたる水滴を呆然と眺めた。ザァザァと音をたて続ける水音に意識を沈めて、状況を整理する。あの写真とビデオで今置かれている環境は理解した。仕事を持っているのも知っている。アメフトを続けているのもわかった。だが、今この状態でそれらを元々やっていた様に実行するのには限度がある。その事が、更に俺を苛立たせる。銀の指輪が嵌まったままの左手を一瞥し、唇を噛んで、強く、握った。その時微かに鍵が開く音が聞こえた。
「ただいまー!」
高い、まだ若干舌足らずな声が空気を震わせる。その声に顔を上げて水を止めた。手元にあったタオルを乱暴に取ると、その足で玄関に向かう。
「…お帰り」
まるで言い慣れない台詞を吐きながら一歩踏み出すと、ぱぱー!と叫びながら娘が駆け寄って来た。
栗毛に碧い瞳。
 その姿はあの女に瓜二つだったが、俺に似たところなど傍目にはわからず、俺の子だと俄かには信じられなかった。だが、足にしがみついた娘が、全く反応を示さない俺を不思議がって、俺の顔を見上げた時に見せた表情に、思わず眼を見開いた。相手の意図を見抜こうとする眼。 隙の無い表情。 あぁ、俺は確かにこんな表情をした気がする。何故かただそれだけを見て、俺は確かにこの娘が自分の子だと確信し、そして何を考えるでもなく、ごく自然に、この娘―彩菜を抱え上げたのだった。右肩に背負う様に抱えると、キャッキャと嬉しそうに声を上げるので、左手で軽くポンポンと頭を叩いてみる。その髪の手触りは存外に柔らかく、体が触れている部分から温もりが伝わって来て、酷く懐かしい気にさせた。
記憶になどない筈なのに。
おかしな話だ。
思わず苦笑して、ふと女の方を見ると、そんな俺の行動に驚いた様な顔をしていた。その女の顔は、酷く疲れていた様に見えた。