消えた人影 4

 茫然と、電気も点けずに夜闇に漂っていた。キッチンのイスに腰掛けて、ただ茫然と。僅かに開いた窓から吹き込む風に髪をいじられようとも、まるで気にする事なく。それ程までに、疲れきっていた。 何も、考えられなかった。


 今日一日で、ここまで疲弊するなんて。妖一が目覚めて、記憶がなくなったのを知って、家に帰って来て。振り返ればたったそれだけの行動なのに、それによって今までとは、まるで世界が反転してしまったかの様だった。包む様に持ったホットミルク入りのマグカップをそっと口に付けて、先程の光景を思い出す。
彩菜を抱き抱えて、髪を穏やかに梳く、その姿。
今迄の、私が知っている妖一と、一緒だった。記憶なんか、微塵も残っていない癖に。
姿はあるのに影はない。
酷い。なんなのよ、この状況は。死んでしまうよりも遥かに残酷だと、思った。頬を静かに涙が伝う。少し、冷静にならなきゃ。そう言い聞かせて、涙を拭った。
状況を整理する。
 妖一の行動には、幾つか気になる点があった。まるで何も覚えていないと思ったら家の構造はきちんと把握していたり、何度も変えている筈のパソコンのロックをなんなく外したり。そして、先程のあの行動も、『今迄の妖一』ならいつもやっていた事で、『今の妖一』ならやろうとさえ思わない筈なのに。
極自然にやっていた。いつもの、あの穏やかな顔で。
そこで、ふと思い至る。そういえば、それらの行動の後、妖一はどうしていたっけ?
気が付いた。頭を。
頭痛がすると言って頭を押さえた。
 決まって覚えていない筈の行動を起こした時に。彩菜を抱え上げた後が特に酷かった様に思えた。事実起きているのも辛かった様で、彩菜を下ろした後すぐに、寝ると言って寝室に向かって行ったのだ。医者の言葉が蘇る。

『思い出す事に痛みを伴う場合もあります』

もしあの痛みがそうなのだとしたら、あの人は、ちゃんと戻ってくるのかしら?嗚呼、神様、もしまだ貴方のお慈悲が受けられるのなら、あの人を、妖一を返して下さい。
痛みなど与える事なく。あの人を、私達に。
涙がまた、頬を濡らした。先程よりも、強く、酷く。静かに静かに嗚咽だけが、夜闇に響いて溶けては消えた。


* * *


 頭が、軋む。

僅かに開いた隙間に無理矢理何かを捩じ込む様な、若しくは無理矢理抉じ開ける様な痛みが走る。なんだと言うのだ。自分でも驚くくらい自然に娘を抱き上げて、あの女の顔を見た途端。
このザマだ。原因はまるでわからない。
 唯一わかったのは、なくなったらしい過去の記憶に触れた直後に起こるという事だけだ。それによって今の行動は『今迄の俺』がやっていた行動なのだと認識していた訳なのだが、今回の頭痛は、余りに酷過ぎた。前もまともに見えなくなる程の痛み。余りの痛みに耐え切れず、倒れ込む様にベッドに潜り込んだ。その後すぐに眠ってしまった様だった。脂汗にも似たまとわりつく様な不快感で目が醒めた。時計はすでに22時を指している。
頭痛はひいていた。喉が渇いた。重い体を無理矢理起こして、ベタベタと張り付いた髪を無造作にかき上げて舌打ちした。そこで布越しに感じた振動と、微かに聞こえた規則正しい呼吸に気が付いて、その方向を見た。
小さな体がすぐ隣りで身を添わす様に眠っていた。
小さな小さな幼い娘。娘がいた記憶などない癖に、俺は、『今迄の俺』は間違いなくこの存在を愛しく感じている。
それだけは、何故かわかるのだ。
『愛しい』などという感情が俺にあったのか。
知らない自分をこんな状態で見出だしてしまった事を自嘲的に笑って、今度こそ、腰をあげた。彩菜を起こさない様に。


* * *


 涙が止まらなかった。
溢れて流れ出ても一向に止まる気配のない涙は頬を濡らし、テーブルを濡らしてもまだ飽き足らず、私の心をも濡らすのだ。どれくらいそうしていたのだろう。時間がどれ程経ったのか気付かぬ程に泣き続けた。だから、すぐ背後に立った人の気配には、まるで気が付かなかったのだ。
「…何泣いてんだ」
「!!…お、起きてたの?」
突然後ろから声をかけられて驚いて涙を拭う。駄目よ、こんなところを見られちゃ、絶対駄目。
「…喉が渇いたからな」
「あ、じゃあっお水、持ってくるね!」
慌てて席を立った。この人の眼を見たら、全て見透かされてしまう。涙が溢れてしまう。耐えられなくなってしまう。抱き付いて、しまう。
妖一であって、妖一じゃないのに。だから、早く離れたかったのに。
「…おい」
呼ばないで。
「!な、何…?」
振り返らずに声だけで返す。
「…何で、泣いてたんだ?」
もう、聞かないで。
「な…泣いてなんか、ないよ?」
声が震えない様に、力を込める。
「…そうか」
珍しく、潔い。でも、これでいいの。これで。だから、そんなこと言って欲しくなかったのに。
「…悪ぃな」
「!!!」
…なんで、謝るの!?今の今迄一度だって謝った事なんかなかった癖に!私の知ってる妖一じゃない癖に!
もう、死んだ方がマシだった。
こんな心臓に杭を打たれる様な目に遭うのなら。こんな生きたまま内臓を抉られた様な気分を味わうのなら。
神様。やはり貴方は残忍な方でした。早く、早く、私の悪魔を、返して下さい。