消えた人影 5

着信:姉崎


 結婚した後になっても元々アドレス帳に苗字しかいれないものだから同じ苗字が二つ並んだところで区別が付かなくなるな、と、片一方の蛭魔は旧姓のままにしていた。昔の名のまま表示される懐かしい女の名前。その女からの電話は3週間振りだった。彼女の夫が事故に遭った時以来の、電話。


 簡素な部屋の小さな窓を開け放して何を考えるでもなく煙を貪る。肺に煙を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。 気管支が、口内が、痺れる様な感覚が酷く心地よい。そんな時、突然ケータイがテーブルを揺らしたのは、もう一日が終わるだろうという時間だった。夜中に誰だと思う間もなく着信相手の表示を見るなりひったくる様に電話に出た。相手が、3週間前に電話がかかってきてから2週間前に病院で会ったきりだった人物、腐れ縁の男の妻だったからだ。
「どうした。なんかあったのか?」
吸い掛けの煙草を灰皿に掛ける。
『………』
無音。人の気配は感じられるのに、酷く、薄い。 冷たい汗が背筋を伝う。
「おい、姉崎」
『…ムサシ君、夜中に、ごめんね』
細い声。消えそうな声。2週間前に会った時は、もっと覇気のある声だったのに。
まさか。
「なんかあったのか?」
馬鹿の様にもう一度、同じ質問を繰り返す。この女の夫、蛭魔妖一は3週間前の事故の後、意識が戻らないまま入院している筈だった。
だから、不安に思ったのだ。こんな夜中に。久し振りの電話。覇気のない女の声。知らないうちに出ていたらしい僅かな不安の色を感じ取って、女が否定した。
『あ…違うの。ちゃんと、退院できたの。1週間前に。死んだとかじゃ、なくって…でも…似た様なもの、なんだけど、ね』
「そうか、アイツ退院したのか!……?」
退院した、と聞いて、時間も考えず思わず声が大きくなった。だが、それにしてもおかしい。本当ならば喜ぶ筈だろう。事故後あれだけ憔悴したあの女の様子を見れば、退院した時の喜びなど計り知れないものである筈なのに。

いや、そうでなければならない筈なのだ。あの時の、あの顔を思い出せば。なのになんだというのだ。この女の状態は。この部屋の空気は。
酷く、息苦しい。
酸素が、恋しい。
煙草が、欲しい。

今、この女が吐いた、『似た様なもの』っつーのは、どういう意味だ?
「『似た様なもの』…?」
思わず、問うた。この得も言われぬ不安はなんだ?思わず煙草に手を伸ばす。
『記憶がね、ないの』
今、なんて言った?伸ばした手が、止まる。
『中学卒業から今迄の記憶が、ないの。だからあの人、私の事も彩菜の事も、ムサシ君と栗田君以外のデビルバッツメンバーの事も、覚えて、ないのよ』

そこまで口にして、女の声が揺れた。限界だったのだろう。
 この女は昔から人に迷惑をかけまいと自分で全て解決してしまおうとするタイプだった。事実自分で解決してしまっていた。それが出来る程頭も良かった。だがその反面溜め込み過ぎて自分の身を磨り減らすことも多々あったのだ。それを察知してフォローに回っていた(傍目から見たらちょっかいを出していた)のは意外にもあの蛭魔であり、それによって発散されていたのもまた事実であり。
そしてその相手が今はいないと言うのもまた事実だったのだ。
 普段ならば蛭魔以外の人間には頼らなかったであろう姉崎が、こうして俺に電話をかけてきたという時点で、どれだけこの女の精神が追い詰められているのか想像に難くなかった。きっと、退院してからの1週間、誰にも言えず、目の前の状況に混乱しながら過ごしたのだろう。女の声には嗚咽が混じっている以外変化が感じられなかった。つまり感情の色が、見えなかった。アイツが記憶を亡くした様に、感情を亡くしてしまったかの様な。
「戻る見込みは、あるのか?」
 思考に没入しかけた意識を引き摺り上げて、代わりに姉崎に投げた言葉がそれだった。言った後で後悔した。それはこの女が一番聞きたい事なんじゃないのかと。それは他人に一番聞かれたくない事なんじゃないのかと。だが姉崎は、至極冷静に口にする。
『戻るかも、知れないって。実際、感覚的には覚えてる事も、結構あるの。でも決まってその後、頭が痛くなるみたいで…』
「そうか…」
やはりこの女は、強かった。伊達にあの悪名高い悪魔の嫁なだけあるなと不謹慎にも納得してしまった。
『でね、ムサシ君。いつでも構わないから、あの人の相談に乗ってあげて欲しいの。できれば栗田君には内緒で。彼は優し過ぎるから、きっと冷静にはいられないだろうから』
相談に乗る。その単語の、なんて異質な事か。人に頼る事を良しとしない男の相談に乗るなどと。
『私には、無理なのよ』
咄々と、言葉は続く。
『私には、今の妖一と記憶を共有する事は、できないの』
煙草が、灰皿の上で静かに燃え尽きた。
『どう足掻いても、無駄なのよ』
何も、言えなかった。
返事をする事さえ忘れて、話を聞き続けた。感情を亡くした女の、力のない一言は、俺の鼓膜を静かに震わせ、女の言葉が内包した絶望とも取れる何かを俺の体に、確実に、残していった。

燃え尽きた煙草の灰が、窓から入る風に嬲られて、音もなく、塵と化した。