消えた人影 6

 あの電話から2日後、仕事を早めに切り上げて、例の夫婦の家へと赴いた。
そう大して立派でもない一般的な手土産をぶら下げてチャイムを鳴らす。しばらくして小さな返事が聞こえて、まもなくドアがゆっくりと開いた。だが目線の先には誰もおらず、すぐ視線を下げると件の女に酷似した、この夫婦の一人娘と眼が合った。休みが出来る度にちょくちょく来てはこの少女と戯れたりするせいか、眼が合った瞬間彼女は至極嬉しそうに笑って、足にしがみつく。その笑顔の中にほんの少し蔭ったモノを見て、勘の鋭さまでよく似たものだと上がってきた苦いものを押し殺した。
そのまま彩菜を抱えて家に上がると、見知った女が小走りで駆けて来た。その姿に、息を呑んだ。明らかに痩せ、肌が生白く、笑顔を張り付けただけの、その貌。感情を亡くした、貌。

ごめんね、ムサシ君。抱っこしてもらっちゃって。
いや、気にするな。

そんな言葉を交わすも、それはもう、いつもの姉崎じゃあなかった。見るに堪えなかった。そんな状態を彩菜が気付かない筈がない、と十分承知の上でやっているのだろう。この女は。

そうでもしないと、きっと、耐えられないのだ。

ヒル魔。お前は姉崎にこんな貌をさせたくて一緒になった訳じゃねぇだろう。
何やってるんだ、お前は!

 それが当然本人のせいではないのを重々理解はしていても、怒りをぶつけずには居れなかった。理不尽なのはわかっていても、居た堪れなかったのだ。姉崎に手土産を渡して彩菜を預けると、奥のリビングに通された。そこには、ソファーに体を沈めて足と腕を組んだまま、茫然と、どこを見ているのかわからない様な眼で座り尽くすヒル魔がいた。窓から差し込む橙と濃紺を混ぜた様な色が、金の逆立てた髪と表情までもを不可思議に染め上げて、まるで今初めて会ったかの様な印象を与える。それくらい、そんな奴の表情を見た事がなかった。


* * *


 姉崎は二人分のコーヒーを淹れてから彩菜と買い物に出かけた。今は、この家にコイツと二人きりだ。テーブルを挟んで対峙する。ソファーの上と床の上の差はあるが。ソファーの上からさして興味もなさそうな眼を向ける、この男。
だが、その眼に少し前までの鋭さは微塵もなかった。意味もなく続く奇妙な沈黙に耐えきれず口を開いたのは俺だった。
「…元気か?」
「そんな風に見えるか糞ジジイ」
口調は相変わらずだと人先ず安心する。
「見えねえな」
そう返して取り出した煙草に火を点けた。
そのつもりだった。それをさせなかったのは、ヒル魔の拒絶するような眼だった。俺が煙草を吸うのが信じられないだとかそんな下らない感情ではなく。吸わなかった当時から吸うようになった現在までの時間に対しての動揺、苛立ち、憤り。
「煙草なんか、吸ってんのか」
ぽつりと、誰にともなく。珍しく自嘲的な呟き。
「あぁ。高校ん時から吸ってたけどな」
その呟きに煙草など吸う気も失せて、至って普通に返してコーヒーを一口啜った。詮索する様な言い回しはもちろん、同情を込めた物言いなどしてみろ、コイツの機嫌を損ねるなど非を見るより明らかだ。
「そうか」
ヒル魔は記憶を探る様に目を細めてしばらく逡巡する。だがそれもすぐに諦めて軽く息を吐いてコーヒーに口を付けた。
まるで、覇気がない。
どこからどう見ても嫌と言う程見知った奴の筈なのに、初対面の様な印象を拭い切れない。思わず眉間に皺が寄る。
「なぁ、本当に、何も覚えてねぇのか」
眉毛をほんの僅か上に吊り上げ苦々しく、吐いた。まるで血反吐でも吐く様な。
「覚えてたら、こんな状態になる訳ねぇだろ」
理解した。
ああ、コイツは、自分が置かれた状況も状態も記憶の範囲も姉崎の異変も全て把握してやがったのか。
もし本当にコイツの記憶が中学卒業で止まっているのだとするならば、今のこの現実を理解するのに持てる理性全てを注ぎ込んだだろう。そうでもしなければ、受け入れるなど到底出来なかったのだ。 ヒル魔の性格ならば、そうなるだろう。己の目で見たもののみを信じる奴だからこそ。
だが、少し妙だった。ならばもう少し割り切っているだろうと思っていたからだ。極めて現実主義であるコイツならば。
「なぁ」
重々しく、ヒル魔が口を開く。
「あの女を、俺はどんな風に扱ってた?」
探る様な口振り。
「見てられないくらいの寵愛振りだったな。あんなお前を見たのは初めてだった」
覚えていないのをいい事に、多少誇張して吐く。まぁ満更でもないが。
「…」
 軽く上を向いて返事も返さず黙考する。目が落ち着きなく泳ぐ。この男が落ち着きのない動作など、今までしたことがあったか?どのくらいの時間が経ったのか、見るに耐えなくなって残りのコーヒーを飲みきって外を見た。すっかり日は落ちきって、空は濃紺ただ一色。このままいても、もう喋る気はねぇだろうな。そう判断してゆっくり腰を上げかけたその時、ヒル魔の口から言葉が零れ出た。
苦い苦い、呟き。
「なぁ糞ジジイ」
「なんだ」
「あの女の様子がおかしいのは、なんでだ?」
「…あ?」
何言ってやがる。それはてめぇの
「俺のせいだって事くれぇわかってんだよ」
「…!」
「そうじゃねえ。なんであの女は、今の俺があの女が知ってる俺じゃねえってのがわかってるのにあんな顔してまで側に居ようとするんだ」
「…」
「耐えられねぇんだよ。理由はわからねぇが、あの女があの顔をすんのが。あの女の顔見てると頭痛が酷くなんだよ。だったら俺の事なんかさっさと忘れて消えてくれた方がいい」
「おいお前…!」
正直、腹が立った。眼が据わる。いくら記憶がねぇとはいえその物言いは何様なんだ?
だが。
そんな俺の様子など意も解さずに続けたヒル魔の次の言葉に、愕然と、した。
「その方が、あの女もあのガキも、あんな顔をせずに済む」
動きが、止まった。中学時代のヒル魔なら絶対にしないであろう発言に完全に勢いを殺がれて、立ち上がりかけたものの乱暴に座り直し、今度こそ、煙草に火を付けた。

毒物以外の何者でもない煙草に、今回ばかりは救われた様な、気がした。